虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

一揆男

2009-07-06 | 一揆
画像は「餓死一揆碑めぐり追録」(平成20年5月刊 杉山 勝著)。227ページ。

杉山勝氏は、「餓死一揆碑めぐり」と「餓死一揆碑めぐり追録」の2冊の本を自費出版している。

1冊目の「餓死一揆碑めぐり」はかなり前、図書館で見た。各地の一揆の碑をめぐり、かんたんな一揆の概要とともに、巻末には碑へいく道筋がわかるように、手書きの地図もそえている。図書館には寄贈したのかもしれない。

「餓死一揆碑めぐり追録」は昨年、出版された。
1作目で約200基、2作目で約300基、合計500箇所の碑を訪ねたことになる。タクシーで何分とか書いているから、車ではなく、電車で訪ねたのだろう。同じような関心を持っている人がいるのだなあ、とうれしくなる。しかし、自費出版のためか、1作目はもう在庫はなく、図書館で見るしかないのが残念。

一揆に関心のある、いわゆる一揆男、何人もいるはずなのだ。

明治最初の一揆男といえば、やはり自由民権家の小室信介だろう。「東洋民権百家伝」に各地の一揆を書きのこしてくれた。この書が一揆や義民を全国に広めてくれた。ベストセラーになったそうだ。

その後は、わたしが知っているのでは、小野武夫。「徳川時代百姓一揆叢談」で全国の一揆の物語、史料を集めて出版した。武左衛門一揆ほかたくさんの一揆が出ているが、この本の中にある「三閉伊一揆」の文献は当時、学生だった森嘉兵衛氏によって送られたものようだ(森嘉兵衛氏は戦後、三閉伊一揆研究の第一人者になる)。

学者ではほかに、黒正 厳の「百姓一揆史談」が全国の一揆に目を向けている。

戦後では、林 基だろうか。「百姓一揆の伝統」など、戦後しばらくは民主主義ブームの中で百姓一揆への関心も高かったときもあったのだ。でも、学者先生の書くものは苦手だなあ。

なんといっても戦後最大の一揆男は、青木虹二氏だろう。三一書房「編年百姓一揆史料集成」、全何巻になるのか知らないが、膨大な一揆の史料、文献を一人で収集した男。学者ではなく、横浜の市役所の職員だった、と聞く。

佐野眞一の「遠い山びこ」という本の中で、青木は、東北の子供たちの貧しい生活を見て一揆の研究に志したとか書いてあったような気がするが(今、その本がないので、たしかめられない、山びこ学校を見てだったかな?)、ほんとに、偉大な事業をやりとげたものだ。学者はこの一市民が残した業績にどれほどの恩恵を受けたことか。これは並の情熱でできることではない。

青木虹二とは何者か?
わたしは青木虹二という人間を知りたい、と思っている。でも、。ネットを見ても何もわからない。いつ死んだかもわからない。どんな顔をしていたのかもわからない。膨大な一揆の史料を集め、整理して、死んでしまった。青木虹二という碑を建ててあげたいくらいだ。

「編年百姓一揆史料集成」は、青木虹二が亡くなったあとは、保坂 智という学者が後を継いでいるそうだが、保坂氏は学者なので、青木氏とはちょっと違う、情熱が違う感じが少ししている、あくまでも、ただの勘だけど(編集方針も少し変えているようだ)。

保坂氏は百姓一揆事典(2万円以上もする。庶民は買えません!)や近世義民年表など値段の高い事典類の刊行をしている。「百姓一揆 その作法」という本では、何をいいたいのかよくわからない文章で(青木氏の方法に対して学問的な疑問を書いたり)、一揆を学問研究のネタにしている学者先生(象牙の塔の中でだけ一揆を見ている)ではないのか、と疑ってしまう。それよりも「青木虹二という偉大な男」について書いてくれ、といいたい。

話を変える。
江戸時代では、高山彦九郎が一揆男だろう。彦九郎は一揆があると聞けば、助っ人に駆け付けた、という伝説がある。

あと、栗山定十郎。一揆侍だ。一揆のあるところどこでも駆け付けた快男児。(高山彦九郎から名前を借りたのだろうか?)

でも、これはフィクション。栗山は半村良の「妖星伝」の主人公の一人(笑)。このSF伝奇小説は最高におもしろいです!(最後の完結編はがっかりしたけど、完結のしようがないからしかたないないです。妖星とは地球。地球とは生命が過剰にあふれた異常な星らしい。まあ、読んでみてください。笑)。