虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

金原田八郎と信達一揆(2)

2007-03-22 | 一揆
同じく9年前の会議室ログより引用です。以下。

  03605/04488 MXG01260 藤五郎 RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/07 19:37 03600へのコメント コメント数:1

としまるさん、追加レスです。こちらもちょっと調べてみました。
>八郎の義理の弟の太宰清右衛門は水戸徳川家へ仕官する事になります。
>(当時、御家人株は金で買えた)
>太宰清右衛門は水戸斉昭の政治姿勢に心酔していた人物です。

松蔭も、この太宰清右衛門という人、知っているようですね(地元では
調べはついている人なのだろうか?)
安政6年8月13日久保清太郎・久坂玄端にあてた手紙に出てきます。
なんとそこにわれら金原田八郎も出てる。

「水戸のことは実に憐れむべし。太宰清右衛門など逃げ去り候ゆえ、
 その妾せい(今、隣房女獄にあり)、その僕頼助(これは病死のこと、不
 憫なこと)、せいの姉むこ奥州信夫郡保原在の八郎(今、西大牢に生存す)
 みな人質に捕えられる。せいの捕えられる時、江戸より捕人30人も向ひ候由、
 せい自らこれを言う」(岩波書店普及版「吉田松蔭全集第9巻」)

そして、この時の牢名主が沼崎吉五郎で、松蔭から遺書「留魂録」をたくさ
れ、明治9年に松蔭門人(政府高官)にわたした人ですが(それまで三宅島に流
されていた)、なんと、この人も奥州福島藩の人なんですよ、としまるさん!

                             藤五郎

としまる RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/07 23:00 03602へのコメント コメント数:2

奥州も新緑が目に眩しい時期になってまいりました。一年でも最も過ごしやすい頃(^^)

≫一揆は、当時の非合法活動だし、実にスリリングなドラマだと思うのですがね。
まこと!実にスリリングですよ(^^)こちらの一揆も、さすがに当事者に話を聞く事
は出来ないけど、言い伝えは随所に残っています。「八郎伝」の編纂に参加した中
の一人がたまさか としまるの知り合いで保原町の歴史文化資料館に勤務している
関係で情報収集がし易いもんね(^^/

一揆というのは、収奪され続けてきた下層農民達の積もり積もった鬱憤が一気に吹き
出したものなのかな??彼らの精神状態にとっても興味を引かれるんです。
たぶん、憶測ですがカーニバル的な興奮状態にあったんじゃないかなって。
「八郎伝」にも出てるし、この土地の言い伝えにも残っているけど、押し寄せる
一揆勢を前にその屋の主が裃袴姿で土下座して応対に出る。もちろん家の前には
にぎり飯、塩じゃけ、新しい草鞋、手ぬぐいなんかが山と積んである。
『一揆様、どうぞ腹いっぱいご飯を召し上がって下さい。お足が痛んではいけません
から、新しい草鞋をお履きになって!汗を拭いて頂くのに手ぬぐいもございます。
ああ そうそう、お酒も樽を開けてございますから‥その代わりこの場はどうぞ
このままお通り下さいませ』

日頃は、野良で働く百姓ふぜいには顔も見る事もできないであろう大家の主人が、
自分達を臥拝んでいる訳だから、さぞや彼らは溜飲を下げた事でしょうね(^^)
一揆が膨らみ続けて何万人なんて群衆になると、もうとても手は付けられませんね。
藩が鎮圧の為に手勢を繰り出しても、せいぜい彼らの要求を聞く位の事で群衆相手
に武力に訴えるなんて事はあまりしないね。なんたって相手が悪いのよ 百姓は。
万が一、暴徒と化した百姓に命を奪われるような事があれば、武士としては末代
までの恥辱だもの。だからこの時点では割合と低姿勢(^^)"

お百姓の要求に対して、藩が善処を約束してさしもの騒動も沈静化に向かう。
集まっていた群衆も、潮が引くように散り散りになっていく。一揆が収まった
と見るや、藩による首謀者の詮議がはじまるよ。とりあえず怪しい奴をひっくくって
拷問にかけたりして、芋づる式に多くの逮捕者がでる。この時点になると藩の
方が強気だよ。

としまる 金原田八郎と信達一揆(2)
( 8) 98/05/08 22:19 03606へのコメント コメント数:2

みなさん こん◯◯は

今回は(2)の八郎 信達一揆の頭取として逮捕されるの巻だよ(^^)

この信達の地は古くから養蚕地帯として広く名を知られていました。最近でこそ無くなりましたが、20年程前までは一面の桑畑が広がっていたようです。さて、島送りが赦免となり八丈島から実家の金原田村へと帰ってきて、2年を経ていた八郎は自ら「誠心講」なる
結社を作り、近在の者を集め、剣術のけいこ、武術の訓練を開始します。世情不安な上、浪人
などもこの地に多く流れ込んだ為、自衛の意味を思ったものか??

時は幕末、蝦夷地沖にも外国船が現れるなど、東北の寒村にも政情混乱の波が大きく押し寄せる中、諸物価も高騰し、最下級の農民の生活は困窮を極めました。
この地にあった桑折代官所の代官は、近隣の蚕種問屋等と結託して私腹を肥やさんがため蚕種、及び製品としての生糸に新税を課そうとしました。

これに対し農民達の怒りが一気に爆発します(`o´)
誰かが事前に各村々へ一揆計画の回状を廻すなどしていた為、慶応2年6月15日の夜、中瀬村(現 保原町中瀬)の宍戸儀右衛門宅が数十人の者によって襲われ、打ち壊されたのをきっかけに、信達各地からぞくぞくと集まった農民の数は、何と十万人以上に膨れ
上がったと言います。

打ち壊しに参加しない村は焼き討ちに合うと言うので、参加しない訳にもいかない面が
多分にあったようです。被害に逢ったのは裕福な商家や農家で、必ずしも悪徳な者とは
言えなかったようですが、その数は百数十軒にも上っています。一揆勢は余勢をかって
桑折代官所へと迫ります。代官所では手に負えずと見て、近在の福島藩や白石の片倉氏
などに応援を求めています。

福島藩、板倉内膳正の名のもと、一揆勢との間に話合いが持たれ、
       (1)生糸にかける税を撤廃する事
       (2)蚕種にかける税を撤廃する事
       (3)道路普請などの強制労役を撤廃する事

などを約束する事により、足かけ5日間にも渡った、さしもの信達騒動も沈静化へ
と向かいます。金原田村も前出の如く、参加しない村は焼き討ちに逢うと言うので
人数を出さない訳にもゆかず、筵旗に‘金’の字を墨書きして小隊を出しています
が、我等が八郎は表だってこの一揆には参加していません。
誰かが一揆の首謀者は八郎だという噂を流した事から、あるいは、捕らえられた
「誠心講」のメンバーが拷問により自白を強要された事から、八郎の頭取説が
またたく間に広がり、遠く江戸や上方の読売にまで「金原田世直し八郎大明神」
と書き立てられ、たいそうな評判となったようです。

しかし、当の菅野八郎は厳として頭取を否定し、彼は終生これを認める事はあり
ませんでした。一揆が終息し桑折代官所による首謀者詮議に、身の危険を感じた
八郎は山中へと身を隠し、ついには梁川役所へ身の潔白を訴えて出ます。
取り調べの為、梁川の獄に繋ぎ置かれること丸2年、ついに時代は維新を迎え、
官軍の北上に伴い証拠不十分として釈放になります(^^/この時八郎56歳です。

そして尚、この後20年を生きた八郎は明治21年1月2日不帰の人となります。

       “咲けば散る 花と知りつつ けふの風”

        希代の農民思想家 菅野八郎 75齢

  信達一揆の真の首謀者は彼であったのか?否かの永遠の謎を残して‥‥

PS 当地に八郎を顕彰する碑文などはないようです(^^;)"
なぜなら、彼が八丈島へ遠島になったのは政治思想による、いわば政治犯として
であり、政治犯を顕彰する事は有り得ない??
信達一揆については、彼は終生ついに自らが首謀者であるとは認めませんでした
から、時代を魁た偉大な農民思想家として高い評価を受けてはいるものの、
顕彰碑、記念碑の類は存在してはおりません。

            #~☆♪(^o^)【としまる】※ CYH03670※ 

貰った話を一つ、ご紹介!
「金原田八郎伝」中 P24 「慶応2年6月15日の午後‥‥」から数えて3行目に
「中瀬村の儀右衛門の家を焼き払え‥‥」とありますね。この人物は宍戸儀右衛門
といって自らも広大な桑畑を有する地主兼生糸商人でした。もちろん超お金持ち(^^)
信達一揆では真っ先に打ち壊しに逢い、屋台骨がぐらつく程の打撃をこうむります。
事件後彼は伊達の地を離れ、隣の白石(こないだ紀ノ川さんが行った町)に移住します。この宍戸儀右衛門の子孫があの俳優の宍◯錠(エースのジョー)さんなんだって(∂∂)儀右衛門から数えて確か4代目とか? ちょっと話題がミーハー?(*^^ )"                          

                         
としまる RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/13 22:40 03638へのコメント コメント数:1

藤五郎さん ちわ~

太宰清右衛門探索の旅にでていた としまるです(^o^)
先日、資料館によって「保原町の歴史」を読ませて貰って来たよ。すっかり
顔なじみになって、お姉さんがお茶を入れて呉れたもんね(^^)

その中に清右衛門について書いた部分があったけど、結論から言うと新発見?
はなかった。太宰清右衛門は現保原町の裕福な商家の長男に生まれ、子供の
頃からたいそう利発だったようです。やがて家業を引き継いだものの、余り
家業には身が入らず、放蕩三昧の日を送っていたとの事。やがて弟に家を譲った
彼は一念発起?!御家人株を手に入れ、武士の身分となります。しかし、侍に
なっても働き口までセットになっている訳ではないので、彼は旧知の水戸藩士
竹内百太郎を頼って、猛烈に仕官運動を展開します(相当、資金も使ったみたい)

こうして正式に水戸藩士としての身分となった清右衛門は、勤皇の志を胸に
国事に奔走していたようですが、「伊井大老襲撃事件」に参加を予定していながら
舟に乗り遅れたため不参加とか、天狗党事件にも支援はしているが直接参加は
していないなど、どこか詰めが甘いね。「報国の烈士」とはちょっと言い難い。
にわか探検隊の勝手な感想としては、どこか、いいとこの若旦那の道楽のような
感じを引きずっている?

もしかしたら、水戸の関鐵之助や薩摩の有村治左衛門のように名が残ったかも?
でも、歴史に‘たら’‘れば’はないか?>(笑)


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