虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

菊池寛平 草の乱

2008-07-27 | 一揆
続いて菊池寛平。映画では雪の中、信州へいき、東車流(だったか?)というところで戦う場面も出ていました。ここに碑が立っています。知らない俳優さんでした。


百姓と秩父事件
( 8) 01/08/10 22:49 10625へのコメント コメント数:1

江戸会議室に秩父事件なんて、と思われるかもしれませんが、秩父事件を通して
江戸時代の百姓の顔が少しはのぞけるような気もしました。

秩父事件には膨大な訊問調書が残されているし、幹部連中の写真もあるし、そ
りゃ具体的です(もちろん、あくまでも江戸期と比べた上でですが。不明なこと
はやっぱり多いけど)

江戸時代の百姓一揆の記録を見ても、頭取になったものの記事(それも鎮圧側
の記録)がほんの少し残ってるだけで、他の一般の人の顔やようすなんかまっ
たくわかりませんよね。農民といえば、ぜいたくせずに、真面目に汗して黙々
として働く、七人の侍に出てくる農民か、下手すると、まるで絵に描いた工場労
働者みたいなのを想像してしまう(^^)

でも、百姓だっていろいろ。
賭博はするし、剣術は習うし、学問もするし、芝居も見るし、おしゃれはする
し、働かないのもいれば、商売するのもいるし、船にのるヤツだっている。ワ
ルいヤツだっているし、

領主としては、ぜいたくしないで、賭博もせず、文句もいわず、まじめに年貢
だけ納めてくれる百姓を期待したいでしょうが、そういうわけにいくかあ!
(^^)

甲州騒動の武七さんなんかは、秩父事件の田代栄助なんかを連想させますね。田
代さん、博徒ということですが、職業としては、養蚕家、農です。博徒みたいな
個性も、それは百姓としてそんなに異端ではない個性だったのでしょう。だから
こそ、総理にもなれる。

秩父事件で参謀長になった菊池貫平という信州佐久の男がいます。

本陣解体後、総理田代栄助が逃げたあと、自ら総理となって200人ほどつれて信
州佐久にまで転戦します(ここに「会津の先生」なんかも参加しますが)。ま
あ、最後まで戦った闘士です。信州の佐久に「秩父暴徒戦死者の墓」が建ってい
ますが、これは菊地貫平の子孫が建てたものです。菊地貫平は死刑の判決をうけ
ますが、大正まで生き延び、家族に見守れて大往生です。

菊地貫平、職業は養蚕家(村内屈指の養蚕家だそうな)、まあ農民ということ
になりますが、一般の農民のイメージはないですね。
貫平の孫はまず曽祖父についてはこんなこと書いています。

曽祖父は米吉と呼ばれ、名主様の次男坊で、なかなか利口者であったが百姓仕事
が大嫌い。寛政の改革のころ、信濃の片田舎では大名でも絹織物に遠慮した時代
に、この人ばかりは、『やわらかい着物でなくて手が通せるかい』とばかりすま
してつむぎを着ていた。

この息子が菊地貫平です。弘化4年生まれ、元治4年に菊地家に婿養子に入りま
す。村内屈指の養蚕家だったそうです。

井出孫六の「峠の廃道」(平凡社)によると、貫平、婿入り後のようすはこんな
だったようです(伝記作者による)。略して書きます。

昼は岳父のいいつけをまもり、夜はむづかしい本ばかり読んでると、

隣りの大伯父「貫平、本ばかり読んでてどうする!若いものと付き合わずに
       そんな本ばかり読んでいると、信用なくすぞ、碁か将棋でもや 
       れ!」
       で、碁、将棋をはじめる。スルト・・・
川向こうの従兄「やい、貫平、耄碌した年寄りの暇つぶしみたいなものをしてど
        うする!三味線とか手踊りとか若者は若者らしいのを覚え  
        ろ!」
        で、べんしゃらりとやりだすと、
坂上の従兄「馬鹿野郎!することにことかいて三味線とはけしからん。男らしく
      剣術をやれ!」
      で、やっとーの練習をする。
隠居   「泰平無事の世に剣術とは。生兵法はケガのもとじゃ。やめなさい。
      詩歌俳諧の道に入りなさい」

こうして、貫平さん、なんでもマスターします。後、代言人になり、佐久の農民
からこんな風に証言されます。

「いったい貫平という者は・・・なまけ者にこれあり、東京へいくのまたはど
こへ行くのと言うて在宅すること稀なる人物にて、越中の薬売りが3年泊まりて
も顔を見たことがないというくらいの人間にこれあり候」

百姓といってもいろいろですね。少なくとも江戸時代は、ただ黙々と働くだけ
じゃないよ。
甲源一刀流と秩父事件(3)
( 8) 01/08/08 20:10 10616へのコメント コメント数:1


甲源一刀流と秩父事件が関係するような話題がまだありましたので、追加しま
す。まだやるのか、と言われそうですが、なんせ机龍之助の剣ですからご容赦(^^)

信州佐久郡の菊池貫平は困民党の挙兵時、参謀長となり、死刑の判決を受けま
すが、逃亡。明治19年に逮捕されるも、恩赦で無期懲役、明治35年に出獄し
た人です。
この人の孫(高橋中禄)が祖父から聞いた話を書き残したのが「秩父一揆巨魁
の逃鼠」という文章(井出孫六編「自由自治元年ー秩父事件資料・論文と解
説」〔教養文庫)。

その中にこんな一節がありました。

「明治16年の初秋ーといえば暴動勃発の時より1年余りの以前の出来事であ
る。初秋とはいえ、海抜4000尺、日本有数の寒村にはもう初霜の降りるころで
ある。武田の勇将相木盛之助の出生地として、その城跡のある、信濃国南佐久
郡北相木村に、ある日の午後、漂然として一人の旅人が現れた。袋小路のドン
詰まりみたいな、この村へ由緒ありげな旅人が来るのは、村人の不思議をあが
なうに値する。しかし旅人は村へ入るとたじろぎもせずに、村内の名家と知ら
れた宇久保の菊池家へ入った。菊地家の当主は貫平。才能近隣に比類無しと知
られた自由党員である。

 白皙長身、由比正雪のような漆黒な長髪をゆさゆさと肩に切り下げていた。
家人は妙なお客だ?と思ったそうであるが、主人は熟知の間柄らしく、いそい
そと奥座敷へ迎えて日暮れまでぼそぼそと何か密談をやっていた。(旅人、実
は剣客であって、後日、村を立退くまで姓名を秘していたそうであるが、秩父
の産、逸見愛助という人であったらしい)
 その翌日から、菊池家の納屋を臨時の道場として近在の生年壮年が集まって
きて、盛んな剣術の稽古が始まった。-略ー
この道場は一種の移動式道場で、半ケ月くらいで次から次へと、村内外の有力
者の家を廻ってそこを道場に人々を集めていた。-略ー
 村の青年どもがそれぞれ自分免許の天秤棒を振り回して野良猫の尻を追い回
すころになると剣術の先生は忽然と村から姿を消していた。以下略」

甲源一刀流の逸見愛作は関東一斉蜂起を画策する影のオルグだったんでは、な
んて想像したくなりますね。
でも、逸見愛作は秩父事件のときには自警団に手を貸した、という話もあるよ
うで、よくわかりません。
しかし、関東の農村地帯では、剣術の先生が村を回り、豪家の蔵や納屋を借りて
出張教授したってことは江戸時代からありそうな風景ですね。

甲源一刀流道場から遠くない下吉田の貴布弥神社の篇額には、明治14年に掲げた
逸見愛作の門弟百数十名の名があり、そこには世話役として井上伝蔵の名も
あるそうです。

井上伝蔵といえば、蜂起時、会計長をつとめました。困民軍が崩壊したあと
は、土蔵の中に1年ほど隠れ、そのうち北海道(北見)にわたり、そこで結
婚、家族から出自を問われても決して語らなかったそうですが、事件から35年
後、死の数時間前に秩父事件の首謀者であることをはじめて語り、同志たちの
追悼を息子にたのんだ人ですね。








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