虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

山中一揆 義民の碑

2008-08-09 | 一揆
岡山県の湯原温泉に日帰りでいってきた。
目的は山中一揆の碑を訪ねることと、露天風呂の湯原温泉砂湯に入ること。
友人の車で友人の運転で行ったので、楽だった。約2時間半のドライブ。

湯原は、岡山県の北部、山間地だ。地図で見ると、大サンショウウオの生息地とある。湯原の北は蒜山(ヒルゼン)。

義民の碑は、米子自動車道の湯原ICを降りると、すぐだ。義民の丘という広場があり、ここに、「義民の碑」と「山中一揆義民慰霊碑」「義民堂」が建っている。
あまり訪れる人もいないのだろうか、草が生い茂り、あまり整備されているとはいいがたい。ここは、一揆の頭領牧徳右衛門が捕らえられた場所で、昭和57年にこれらの碑が建てられたそうだ。義民堂の「しきび」は枯れ果てていて、最近、ここをお参りした人もいないようだ。持ってきた線香に火をつけてきて拝んできた。


享保11年(1726年)の山中一揆は、百姓一揆史上、最も犠牲者が多く出たすさまじい一揆だ。斬首になった者51名、しかも、その生首をあちこちにさらして、村民を弾圧した津山藩。史料(美国四民乱放記)に書き残された頭領牧徳右衛門の最期など、壮絶だ。

「時刻も来たければ、木の末に引き上げ、すぐに最期と見えけるが、まなこを八角に見出して、「われ、死して、三七日間(21日)、色も替わらず、かたち損ずまじ。しかれば、死してもかたきを取るべきぞ」と、自ら舌をくい切り、含む口血を天にふきあげ、「諸天善神、願わくば、佞人を忽ちに命を取ってみせたまえ」と眼を閉じ、言葉もなし。則、穢者どもこれを承り、槍追取り、カタワキへ2本3本突きぬけるを事ともせず、また、眼を開き、「我、命、終わり、魂は冥土におもむくとも、魂はこの世にとどまりて、五百生にも生つきせぬ因果、今に思い知らせん」と言ったとある。その後、徳右衛門は死後7日、不思議にも色が変わらず、おのれが心に覚えある人は恐るべしという、と書いてある。

横溝正史の「八墓村」はこの地方を舞台にしている。落武者を村人たちがだましうちにし、その落武者の呪いを受けて村人が怪死をとげる(?)という、呪いの話だった。

牧徳右衛門は、仲間の裏切り(密告)によって捕まる。津山藩は大砲まで持ち出して徹底的な弾圧に乗り出すが、その過程で、戦線から離脱していった多くの村民もいたにちがいない。ここには、徳右衛門の墓のほかに義民の碑が21箇所もあるが、それは、義民を顕彰するというよりも、恨みを残して殺された人々への慰霊の思い、ひょっとして、「呪い」みたいなものを恐れる気持ちもあったのかもしれない、とも思った。それほどすさまじい一揆だ。首なし地蔵などもある。
次は、この徳右衛門の墓へ。


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