虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

保内町磯津のお墓

2011-03-07 | 宇和島藩
納骨式というのか、祖母の骨をお墓に納める式に参加した。
場所は宇和島市保内町磯津。

明石大橋を渡って、淡路島を通り、高松自動車道、松山自動車道を走り、伊予灘あたりから国道、夕焼けラインといって、海沿いの眺めのよい道路を走る。大阪から約6時間。

画像でもわかるように、きれいな海辺の小さな村です。おそらく、釣り人にとっては、最高の場所だ。晩年は、こんな土地で日がな一日釣りをして暮らす、というのも男の夢ではなかろうか。

墓地の上に通玄寺という小さなお寺もあるのだが、かなり前から無住の寺(なんでも坊さんはバクチで逐電したとかの噂もある。だれかここの坊さんになってくれないか? 笑)。

この磯津でぼくの先祖はたぶん漁師をやり、父親も三歳までここで育った。父は、死ぬ前、磯津に埋めてくれといっていたので、ここにも骨を分骨している。

さて、親不孝なぼくは、自分の先祖の墓よりも、他の人のお墓をここで探索することにした。


実は、ここに市村敏麿(この宇和島藩のカテゴリーでずっと追いかけてきた人だけど)の長男である田中 操さんの墓があるのだ。

敏麿さんの子供の中では、この田中操さんが、一番、敏麿を知り、深い理解を持つ人で、「市村敏麿の面影」という本も、田中さんが大切に保管してきた史料をもとに書かれた。操さんは、磯津の田中家の養子になる(養子になる代わりに、おそらく東京で医学を学ぶ学費を出してもらったのではないだろうか)。操さんは、この僻村で医者をし、貧しい患者さんからはお金をとらず、赤ひげ先生とよばれていたそうだ。父親の墓を宇和島から父親の故郷城川町古市に移し、古市村の人たちに四国電力の株券を譲渡して、お墓の管理を頼んだのも、この操さんだ(今なお、敏麿のお墓は村人たちが共同で管理している)。

田中 操さんのお墓を見つけた。昭和44年78才で亡くなる、と記されていた。
その息子さんも医者になり、青森の方で、医者として働いていたそうだが、「だいぶ人を死なせたので、今度は坊主になって、死者を弔いたい」と晩年はこの磯津に帰ったとそうだが、坊主になったかどうかは知らない。この人も変わった人だが、お墓になっていた。その息子さんとなると、だれに聞いても、もう杳としてわからない。

お墓の近くには二宮敬作公園(だったか?)もあった。
司馬遼太郎「花神」に出てくる酒飲みの医者二宮敬作だ。かれも磯津の人。
狭い村だ。このお墓にいる昔の人は、ぼくの先祖も含め、それぞれ知り合いで、なんらかのつながりがあったのだろうな、と思うと楽しい。