虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

湯原温泉砂湯

2008-08-09 | 日記
湯原温泉砂湯。露天風呂では、西の横綱にランクされているらしい。無料。混浴。
車は近くの広い河原に止める。無料。小さな脱衣所があるだけ。

いったときは、10人くらいだったが、すぐに出るので、2.3人しかいないときもあった。湯は、長寿の湯、美人の湯、子宝の湯の3つある。湯原ダムのしたにあり、おおきなダム、そして対岸には大きなホテルが建っている。川ではつりをしている人もいる。眺めもよく解放された気分になる。

混浴とはいえ、お昼、まさか女性は入らないだろうと思っていたが、60歳くらいの女性が一人、子供連れの30歳前後の女性が一人、カップルの若い女性が入っていた。せっかく来たのだからちょっと入ってみよう、という感じで、だいたいみんなすぐに出て行く。夜、ここに入りにくる人が多いらしく、夜は盗難に注意、と書いてあった。おふろというのはあまり長く入れない人間なのだけど、露天風呂っていいなあ、と思った。無料なのが最高。

町かど物語には、湯原は昔は川の露天風呂だけだったらしい(戦国時代)。宇喜田秀家が母親おふくの病気を癒すため、露天風呂に屋根をつけたのが、内湯のはじまりで、それからしだいに内湯が広まったとか。

秋は紅葉の眺めがいいらしい。一揆より露天風呂がよかった。でも、ここの川のすぐ下のほうの河原で一揆の人々は処刑されたのだと思う。

湯原温泉

2008-08-09 | 一揆
湯原温泉にははじめてきた。
温泉好きの友人はもう10回ほどここに来たことがあるそうだ。湯原は、今では(昔からか)、山中一揆よりも湯原温泉として有名らしい。湯原温泉街に入ると、けっこうたくさん温泉旅館やおおきなホテルが立ち並んでいる。といって、観光地というほどではない。歩く人もまばら。道のあちこちに町かど物語としてペンキ絵つきで町の伝説や由来を語った説明板があるのが楽しい。絵が夜店のお化け屋敷の看板のようでおどろおどろしい。宇喜田秀家の生母おふくさんもここの温泉に入ったそうで、ここがおふくさんの入った湯という石像を建てている旅館もあった。

湯原温泉民俗資料館には、山中一揆の史料も展示しているということなのでいってみたが、なんと「大お化けやしき」になっていた。でも、今日はなぜか閉まっていた。土曜日は開いているはずなんだけど。でも、お化けやしきは、ここには似合う。画像には、町かど物語の説明版が出ている。
では、湯原温泉砂湯にいこう。

徳右衛門御前(山中一揆)

2008-08-09 | 一揆
徳右衛門の墓は義民の丘から313号線を2分ほど南下した道路沿いに建っているということは知っていた。だが、見つからない。標識はない。もう1度、ひきかえして走るがわからない。近くを歩いているおじいさんに聞いてやっとわかった。

たしかに313号線のわきの上に教育委員会が立てた説明板と墓がある。でも、このあたりの道路は歩道はなく車がビュンビュン走り、あぶない。歩く道ではない。よそ者には、ここに墓があるなんてわからないよ。

しかも、草ぼうぼうで、とても入れない。草をふみ倒して入れないことはないのだけど、いかにもマムシが出てきそうでこわい。説明版に何が書いてあるかもわからない。湯原の教育委員会、もう少し整備すべきだろう。まったくの放置状態だ。

かつてこの墓は「徳右衛門御前様」として神として祭られ、刀、釜、くわ、幟などが奉納され、願い事がかなうということで大いににぎわったそうなのだ。今は見るかげもない。線香をもってきていたのだが、とても近づける状態ではなかった。
このあと、山中一揆の副大将樋口弥次郎や参謀役日名田の半六(もと福山藩士剣客)の碑も訪ねるつもりだったが、どこもこんな様子かも、と思い、やめることにした。

牧徳右衛門は、たたら製鉄で鉄の生産や運搬に関わった人ともいわれる。もともとこの土地の人ではなく、肥前の生まれで、江戸で奉公をしていたこともあるともいう(美国四民乱放記)。

山中一揆 義民の碑

2008-08-09 | 一揆
岡山県の湯原温泉に日帰りでいってきた。
目的は山中一揆の碑を訪ねることと、露天風呂の湯原温泉砂湯に入ること。
友人の車で友人の運転で行ったので、楽だった。約2時間半のドライブ。

湯原は、岡山県の北部、山間地だ。地図で見ると、大サンショウウオの生息地とある。湯原の北は蒜山(ヒルゼン)。

義民の碑は、米子自動車道の湯原ICを降りると、すぐだ。義民の丘という広場があり、ここに、「義民の碑」と「山中一揆義民慰霊碑」「義民堂」が建っている。
あまり訪れる人もいないのだろうか、草が生い茂り、あまり整備されているとはいいがたい。ここは、一揆の頭領牧徳右衛門が捕らえられた場所で、昭和57年にこれらの碑が建てられたそうだ。義民堂の「しきび」は枯れ果てていて、最近、ここをお参りした人もいないようだ。持ってきた線香に火をつけてきて拝んできた。


享保11年(1726年)の山中一揆は、百姓一揆史上、最も犠牲者が多く出たすさまじい一揆だ。斬首になった者51名、しかも、その生首をあちこちにさらして、村民を弾圧した津山藩。史料(美国四民乱放記)に書き残された頭領牧徳右衛門の最期など、壮絶だ。

「時刻も来たければ、木の末に引き上げ、すぐに最期と見えけるが、まなこを八角に見出して、「われ、死して、三七日間(21日)、色も替わらず、かたち損ずまじ。しかれば、死してもかたきを取るべきぞ」と、自ら舌をくい切り、含む口血を天にふきあげ、「諸天善神、願わくば、佞人を忽ちに命を取ってみせたまえ」と眼を閉じ、言葉もなし。則、穢者どもこれを承り、槍追取り、カタワキへ2本3本突きぬけるを事ともせず、また、眼を開き、「我、命、終わり、魂は冥土におもむくとも、魂はこの世にとどまりて、五百生にも生つきせぬ因果、今に思い知らせん」と言ったとある。その後、徳右衛門は死後7日、不思議にも色が変わらず、おのれが心に覚えある人は恐るべしという、と書いてある。

横溝正史の「八墓村」はこの地方を舞台にしている。落武者を村人たちがだましうちにし、その落武者の呪いを受けて村人が怪死をとげる(?)という、呪いの話だった。

牧徳右衛門は、仲間の裏切り(密告)によって捕まる。津山藩は大砲まで持ち出して徹底的な弾圧に乗り出すが、その過程で、戦線から離脱していった多くの村民もいたにちがいない。ここには、徳右衛門の墓のほかに義民の碑が21箇所もあるが、それは、義民を顕彰するというよりも、恨みを残して殺された人々への慰霊の思い、ひょっとして、「呪い」みたいなものを恐れる気持ちもあったのかもしれない、とも思った。それほどすさまじい一揆だ。首なし地蔵などもある。
次は、この徳右衛門の墓へ。