らんかみち

童話から老話まで

餓鬼道に落ちた友の供養はしてあげたいが

2009年08月19日 | 暮らしの落とし穴
「去年のことですが、TEL爺というぼくの友だちが亡くなりまして……」
「えぇ、彼は良いお方でした」
「ご住職、憶えておいでなのですか」
「いえ、良くは思い出せないんですが、亡くなられたら、どなたも良い方になられます」
 ご住職に忘れられて、死んだTEL爺にとってはもっけの幸いだと思う。彼はいつぞや、ぼくの菩提寺に上がり込んでさんざん飲み食いした挙句にドロン! 礼状のひとつも出さなかったからといって、全く意に介していないご住職の来る者拒まずの太っ腹に掬われたことでしょう。
 
「TELさんよぅ、あんた良い人だったの、違うよねぇ」
 ぼくの心の中で、すでに良い人になりつつある彼に問いたい。
「オレはね、人に言えんようなことをやりたいんや、それが生きた証やと思うからね」
 彼の言う、人に言えないような自慢話とはいったいどんなものか、長く付き合ったぼくには理解できるけど、それはやっぱり人に言えることではなさそう。しょうもない人やなぁと、彼を罵ったのも今は昔、ぼくが死んだら全ては灰燼に帰す刹那の会話なら、死ぬ前に忘れてあげる。
 
 昨日は菩提寺の施餓鬼法要の日で、今日は隣村の法南寺の施餓鬼法要の日。TEL爺は餓鬼道に落ちて、食べる物も飲む物も全てが炎に変わってさぞや苦しかろうなぁ。ビールの一缶でもお供えしてやりたいけど、お盆に戻って来られて悪さをされてもかなわんし、というか戒名も知らんし。
 
 写真は漁村の椋名村の法南寺で撮影した物です。小さいお寺ですが、地元の青年団かが屋台を出していて、素敵な施餓鬼法要でした。