らんかみち

童話から老話まで

金を払ったからといって技術が身につくわけではない

2010年10月25日 | 陶芸
 釉薬かけをして窯詰めしました。ブログにアップしようとその窯の写真を見たら、アウッチ! 一つの棚で間違えてるじゃないか。棚板を3点で支持しているんですが、三角形が逆になっているところがあって、これは絶対にまずいぞ。
 棚板を破損させようものなら大目玉を食らうでしょうね。1枚が1万円くらいする物なので、窯一杯のぼくの作品が売れたってペイするわけがない。失敗は成功の母などと言って見過ごしてはくれそうもないので、明朝は早めに出かけて詰め直す所存にございます。

 ぼくみたいに失敗ばかりやらかして痛い目に遭っていると、次からは慎重になるし痛みを忘れることはありません。しかし、だれかから手取り足取り教わったことは残念ながら忘れてしまいやすいです。
「一子相伝とは、教えないことである」と、歌舞伎役者だったか狂言師だったか、我が子に芸を伝えるのに芸を教えてはいけないというのです。もちろん箴言、レトリックであり、「技は教わるものではなく、盗むものである」と共通する格言でしょう。

 我が陶芸クラブはその昔、鄙には珍しくといっては叱られるかも知れませんが、著名な陶芸家を師と仰いでおったそうな。その時代の資料をひもといてみると、膨大な釉薬の調合リストやテストピースがあって驚きます。先生は非常に親切丁寧な方で、粉骨砕身クラブのために尽くしてくれたであろうことは想像に難くありません。それなのにどうして先生の技術は伝承されずに今にいたってしまったのでしょう。

 思うに、人は気前よく教えてもらったことは気前よく忘れてしまうものじゃないでしょうか。流血の末に自力で獲得した自由は死守しても、占領軍から与えられた自由はぞんざいに扱ってしまうのと似ているでしょうか。伝統芸能にしても、子どもが自力で身につけた芸でなければ伝承されないのでしょう。

 師と仰いだ陶芸家が亡くなり、教わった技術がわずか数年で失われた要因を、クラブ員の高齢化と分けて考えることはできないと思います。しかし主因として、先生の微に入り細をうがった指導が、クラブ員の自力で考える習慣をスポイルしたのかも知れないのです。
 知り合いの陶芸家を訪ね、よその陶芸クラブを見学し、陶芸教室に飛び入りで受講したりするぼくの姿を見て「あなたは本当に熱心よね」と、褒めているのか呆れているのか知らないけど、技術の獲得に苦労しなければ身につかないとしたものです。

 親はなくとも子は育つと云うけれど、親がいるから育たない子もいる。童話講座だって同じことですが、金を払ってまでして「千尋の谷に突き落としてください」と懇願する生徒もいないので、お師匠さまも頭の痛いこって。