らんかみち

童話から老話まで

般若さんという仏事と神事のコラボ

2009年02月08日 | 社会
平成21年津倉村大般若波羅蜜多経転読


 当地は村上水軍が根城としていた島のひとつであるといわれております。村上水軍というのは、織田信長軍と戦って敗れて後に豊臣の覇権に屈し、およそ400年前に歴史の表舞台から消えた海賊です。
 ぼくが子どもの頃には海賊の勇姿を見れなかったのは言うまでもないのですが、彼らの血を脈々と受け継いだ末裔たちは海運業を生業としておりました。その隆盛たるや、六本木ヒルズの面積より狭いかもしれない当村にあって、個人所有の貨物船が17杯もあったというほどです。
 
 貨物船といっても当時は機帆船と呼ばれる、焼玉エンジンと帆の両方を駆使して走るという、現代エコ船のさきがけでありながら今となってはすっかりディーゼル鋼船に代わった旧式の木造船です。それらの主な積荷は桜井漆器、つまりお椀だったのです。お椀を積んでいるから文字どおり椀舟と呼ばれ、北は上方、南は九州まで往来し、地元へは九州の炭鉱から石炭を満載して帰って来たといいます。
 
 瀬戸内海は内海とはいえ、鳴門の急流が日本で最も早く、次いで船折瀬戸の名を冠された当地周辺の海が2番目に早いとされています。そんな激流逆巻く海の難所を、400年前の海賊が手漕ぎ舟で自在に往来していたのはすごいことだと地元のぼくでも思います。
 実際、木造船から鋼船へと進化した戦後になっても瀬戸内海の海難事故は後を絶たなかったばかりか、むしろ大型化した客船が沈没し、収容された遺体で漁村の浜が埋め尽くされる大惨事も起きたのです。
 それゆえ本四架橋は瀬戸内沿岸住民の悲願であり、その礎を支えているのは古来より海に飲み込まれてきた無数の霊魂なのです。
 
 したがって当村での最大の関心事は海上交通の安全でした。昔の村人たちが神や仏、すがれるものなら何にでもすがって安全を祈願したであろうことは、海の神様を祀る神社が至る所に存在することでも分かります。
「海神社にありがたいお経を奉納して、お坊さんに拝んでいただいたら、その後利益は僧正効果となって……」みたいなことを考える人がいても不思議ではありません。そこで、明治の時代になって廃仏毀釈の嵐が吹き荒んだとき村を挙げて協賛金を募り、讃岐の某寺から江戸時代に印刷されたお経を救い出したとされるのが、今に伝わる大般若経全600巻なのだそうです。それら一冊一冊のお経の裏表紙の内側には奉納した方の名と、「家内安全」「海上交通安全」の文字がはっきり見ることができます。

 こどもの頃はこのお経が入った箱を大人が担いで村を練り歩き、家々の軒先でその下をくぐったものです。「知恵のお経だから、ご利益で頭がよくなる」といわれてくぐった甲斐も無いぼくの体たらくですが、そういう願いが込められておりました。
「昔は大般若経を担いだ後、皆が集まって般若湯をいただきもって話に興じたもんじゃ」
 村の長老がおっしゃるように、この行事は村民のコミュニケーションを図る意味もあった由。つまりこれは神事と仏事に名を借りてはいるものの、日ごろは船に乗って顔をあわせることの少ない男たちの飲み会、娯楽でもあったと。
 今はもう担ぐことも飲むことも無くなって形骸化した行事なのですが、そこに込められた思いは、この先も連綿として受け継いでいきたいものです。