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■旧夕張市美術館収蔵作品展2024ー先生からの贈りもの (8月3~15日、夕張)

2024年08月15日 14時56分27秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 お盆時季に毎年、夕張市美術館が所蔵していたコレクションを公開する展覧会。
 タイトルには明記されていませんが、事実上の「木下勘二展」といってよいでしょう。
 会場の「りすた」では、廃校になった市内の小学校の歴史の特集展示や、石炭細工の展示、新収蔵品の紹介なども行われていて、にぎやかですが…。

 木下勘二(1917~89)は夕張生まれで、晩年は釧路で活躍した画家です。
 筆者もこれまで何度か作品は見ていますが、まとめて鑑賞したのは初めてです。正直言って、こんなに良い画家だとは思っていませんでした。自らの不明を恥じるばかりです。
 
 
 木下は大正6年、市内沼ノ沢生まれ。
 農家の生まれだと思われますが、略歴にはそのあたりはあまり触れられていません。
 札幌工業学校で設計などを学び、34年(昭和9年)に三菱美唄砿業所で働き始めました。
 小さな頃から絵に親しみ、38年に道展に初入選。
 雑誌のカラーグラビアで見た国松登の絵に感銘を受け、国展にも出品します。

 43年に三菱大夕張砿業所に異動しますが、戦争直後に職を辞します。
 
 
 実家に身を寄せていたおり、いとこに勧められて、夕張第二小で教職につきます。
 市内の真谷地中、向陽中を経て、53年には夕張南高に転じ、69年まで教壇に立ちました。
 また、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)の通信制に学んで58年に卒業しています。
 
 皆さんも一度は見たことがあると思いますが、夕張メロンの箱の絵をデザインしたのも彼です。
 
 
 画像中央の「花豆と子どもたち」(1938)が道展の初入選作だそうです。

 この絵が、豆の赤い花を配して、メルヘン的な明るさを漂わせているのに対し、右の「雪の鍛錬」(1943)は、冬の乗馬訓練の様子を描いて、時代を感じさせます。
 国展の初入選作とのことです。
 なお、木下勘二は1960年代に入り、国展から、抽象画やインスタレーションといった新傾向の作品が多い新象美術協会に転じています。

 画像左は「やぎと少年」(1957)。
 
 
 画像左は「パレットを持つ男」(1952)。

 展覧会場の入り口が、自画像から始まるという構成は、よくあります。

 画像では暗くてよくわからず、すみませんが、右の「窓辺」(1949)は、第24回道展に出品した母子像。
 枯れたひまわりのような植物が見える窓の手前で、子どもを両腕で抱っこした母親がすわっています。
 当時、妻が病気だったと、画家が回想しており、画面から家族への愛情が伝わってくるようです。
 
 
 画像は「蹄鉄師ていてつ し 」(1952)。

 1950年代に入り、黒く明確な輪郭線で、単純化したモチーフを縁取って構成した作品が増えてきます。

 この傾向を
「キュビスムの影響」
といって済ますのは簡単なのですが、学芸員の方から、画家が三菱時代に仕事で書いていた坑内の図面と関係あるのではないかと言われると、なるほどと感じます。

 複雑に入り組んだ坑道を、わかりやすいように一枚の平面に落とし込むという作業は、絵画制作と共通するものがあるかもしれません。

 この「蹄鉄師」は、以前にもどこかで見たような記憶があります。
 それがいつ、どこのことかは思い出せません。

 
 坑内図のようだと思わされるのは、この「人車」(1956)も同様です。

 トロッコ列車のような小さな車両に、身を縮めて乗り込み、地底深くの坑道へと進んでいく炭鉱夫たちを、ごく単純化して構成した絵画です。

 色数がごく絞られていることからも、キュビスムの影響を感じさせますが、題材には、夕張の画家らしさがあります。

 木下勘二は、教壇に立っていた時代が長く、いわゆる「炭鉱画家」というカテゴリーには入れづらい存在です。
 また、それぞれの時代のトピックを画面に取り入れることもしていません。
 ただ、こうして見ると、やはり「炭都」と称された夕張で生き、夕張美術協会の設立に尽くした画家であったのだなあーという感慨がわいてきます。
 
 
 左の「砿夫」(1959)も、坑内に入っていく炭鉱マンたちを描いているようです。

 右の「黒い川」(1957)は、完全な抽象絵画になっています。

 日本に抽象絵画とアンフォルメル旋風が吹き荒れた時代で、通信制のスクーリングで上京した際などに、そうした中央画壇の動向を肌で感じていたのかもしれません。想像ですが…
 
 
 左は「黒い月」(1968)。

 右は「ある風景」(1969)で、このオールオーバーな画面構成は、どこか難波田龍起の画風を想起させます。

 難波田は生まれ故郷の旭川には短い期間しかいませんでしたが、戦後はたびたび札幌のグループ展などに参加し、道内の画家には親しい存在だったと思われます。
 
 木下勘二は1970年、道東への転勤を希望し、釧路江南高へ異動します。

 これ以降、作風はかなりの変化を見せます。
 

 手前は「摩周湖」(1973~)。

 具象の風景画の小品も何点か展示していました。

 奥は左から
「異国の島」(1972)
「太陽と虹と流氷と」
「流氷からのイメージ」(1975)
「昇天」(1977)
「流氷原」(1982~83)


 このうち「昇天」は奥様が亡くなったときの作品だそうです。

 氷の海に愛する人の死を幻視した、画家のかなしみが感じられる作品だと思います。
 

 左は既出の「流氷原」。

 舞台上は左から
「かべ」(1978)
「氷上の椅子」(1988)
「北の海」(1986~87) 
 
 
 「北の海」を正面から。

 手前のキツネは意見が分かれそうですが、筆者は、小さな球体を複数配した構図上の操作が、いささか理に勝ちすぎているように感じられ、キツネのほうが画家の感情をとらえるフックになっていて、好ましく思えます。
 球体はこの絵にも1個、描かれていますが…。

 空中にはためく白い布か旗のようなものは、1970年代以降の絵にしばしば見られます。


 「氷上の椅子」は第63回道展に出品された遺作だそうです。

 ぽつんと置かれた椅子が、逆説的に、人間の不在を際立たせます。
 
 
 会場の入り口から奥を見ると、前出の「室内」と「昇天」が、同時に視野に入るようになっています。
 会場構成のこだわりを感じさせます。
 
 
 ところで、会場に置いてあった、釧路市立美術館の木下勘二展の図録をめくっていたら、夕張市美術館の上木和正元館長が文章を寄せていて、「氷上の椅子」に透明なフクロウが描かれている旨の記述がありました。

 驚いて見直してみると、いすの背の上に、確かに何かが描かれています。
 あるいは、飛び立とうとしている人の魂のようにも見えてきます。

 あらためて、最後の作品らしいと、感銘を受けたのでした。



2024年8月3日(土)~15日(木)午前10時~午後6時半(入場6時まで)、会期中無休
拠点複合施設りすた(夕張市南清水沢4)

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