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「木彫家 藤戸竹喜の世界」展図録の齋藤玲子国立民族学博物館准教授による論文「藤戸竹喜と木彫り熊とアイヌ文化」の意義

2017年12月23日 16時05分00秒 | つれづれ読書録
(承前)

 最後に、もう一点だけ。

 札幌芸術の森美術館で開かれ、2018年に大阪の国立民族学博物館に巡回する「現れよ。森羅の生命― 木彫家 藤戸竹喜の世界」展の図録に、同博物館の齋藤玲子准教授が「藤戸竹喜と木彫り熊とアイヌ文化 -旭川から阿寒湖、そして世界へ」と題した論文を寄せている。
 この論文は、これまで定説とされてきた木彫り熊の日本における発祥に疑義を呈した藤戸氏の私家版を紹介しつつ、木彫り熊や、アイヌ芸術の流れを丹念に跡付けた貴重な文章である。大学や博物館の紀要などにはあるいはこの手の論文はいくつも発表されているのかもしれないが、一般の目に入る機会ははなはだ少ない。木彫り熊やアイヌ文化に興味のある向きは、必読の一文であろう。

 おりしも今年は札幌国際芸術祭の企画として、札幌市資料館で熊の木彫りコレクションが大量に公開された。
 なかば忘れられたみやげ物に、ふたたび脚光を当てた―という意義は小さくないものの、いかんせんテキスト類が決定的に不足しており(これから出るであろう報告書などで補われるのかもしれないが)、いまなぜ熊の木彫りなのかが見る側にまったくといっていいほど伝わらない展示だったことは否定できない。むしろ、あのような展示が続くのであれば、熊の木彫りを出来合いの工芸ないし彫刻のカテゴリーに押し込めて近代主義的な観点からその造形的な出来ばえのみを云々するという反動的な身振りの再生に寄与する危険性すら、なしとしないだろう。

 ところで、これまで語られてきた日本における熊の木彫りの発祥というのは、大正期、渡島管内八雲町を開拓した尾張徳川家家臣から見て殿様の直系の子孫にあたる徳川義親がスイスでみやげに買ってきた熊の木彫りを、農閑期に取り組む工芸品として農民たちに奨励した―というのが定説となっている。ただし、その直後に始まった旭川のほうが、後の北海道の木彫り熊の主流になった、というのだ。その後、八雲の系譜は、非常に先細りになってしまった。
 ところが、この齋藤論文は、藤戸の私家版を論拠にして、八雲発祥の証言となってきた浅尾一夫らの回想に疑問を呈し、確たる証拠こそないものの旭川の方が早くから取り組んでいたのではないかという見方を提示する。詳しくは論文に当たられたいが、その資料の吟味ぶりは見事であり、説得力がある。
 また、この論文は、熊木彫りよりも以前からアイヌ民族には小さい立体をこしらえる文化があったこと、阿寒の観光ブームの推移などについても調べており、裨益するところ大であった。



2017年10月14日(土)~12月17日(日)
札幌芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)

2018年1月11日(木)~3月13日(火)
国立民族学博物館(大阪府吹田市千里万博公園)

(この項おわり) 


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