小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

母の日に想うこと

2012-05-10 14:16:53 | 暮らしのジャーナル

                   母とニューヨーク

82歳の母が初めての外国旅行、ニューヨークにやってきたのは1972年、私がニューヨークに住み始めて8年目の年であった。姉二人を付き添いに連れて緊張して降りてきた母は、声が出ないほど疲れていた。旅行に出た末娘がそのままニューヨーク二住みついたのだから、この目でどんな生活をしているか見たかったのだろう。

25年間住んだ5階のアパートで、日本に帰ってくるように懇願していた母の言葉も聞く耳持たずにno-no-noと聞き流していた。親の気持ち子は知らずとは本当のことだ。大志を抱いていたわけでもなく、毎日が楽しくて楽しくてという理由であった。
 
アメリカの友人が別荘に招待してくれた。その家はかってシャガールが住んでいた家だった。
家を買った時、壁紙をはがすとシャガールの手書きの壁紙絵が出た来たという大きな家であった。雪が降っていたので、車から友人は母を大事そうに抱き、暖炉の前にひざかけをかけてくれた。
父に抱いてもらったことなどまったくなかったから、興奮して硬直している母をみて、娘たちは転げまわって大笑いしていた。

今はなき貿易センターのトップレストランの二人テーブルで手を握り合うカップルを見ないように、
(見ては失礼なので)まっすぐまえを見て私たちのテーブルに着いたのも,とても可笑しかった。

歩くのが遅いので向かいのシニアセンターで無料の車椅子を借用し、母を乗せてセントラルパークを横切ってメトロポリタン美術館に連れて行った。クリスマス頃の美術館は満員。途方に暮れていると声がかかった。「皆さん!オリエンタルのオールドレディを通してあげましょう」と交通整理をしてくれた。母は「ありがとうございます」と皆に手を合わせ会釈し、絵画は全然見ず部屋中がスマイルに
包まれた。

母が亡くなった時も取材旅行で日本に帰国できなかった親不孝者。偶然のチャンスで今、谷中に住んで朝は御経と鳥の声でめざめ、毎日お寺巡りであけ暮れる日々。日蓮宗の母がいたらどんなにか喜ぶだろうと当時は想像もできなかった現在と、自分が後期高齢者になって、母に悪いことをしたと心底、情けなくなっている今日の母の日である。

      
     皮張りであったパスポート。母は”この御経を何時も身につけていなさい” と言った。”読めないなーとぼ
     やくとすべてに仮名を振ってくれた。左の母の手書きの般若心経は72歳位から94歳まで毎日書き続け
     棺をうめた。
                   
     
     19世紀女性のおこずかいは極小。10㌣と5㌣を2枚重ねてはいる。大切にシルバーのケースに入れて
     女性たちは持ち歩いた。当時女性はレストランには入れなかったので5㌣で食べ放題の屋台の蛎とか
     ハマグリの立ち食いは女性の楽しみであった。そのケースに入れた母と私。持ち歩きはしたことがない。
     左)ブレスレットと指輪はイタリーにいった時の母への御土産と時計が好きな母に贈った懐中時計。ネジを
     まきすぎてすぐゼンマイが切れて壊れたけれども、耳が遠くなったので、耳元で確かめ、
いつも枕許におい
     ていた。二つ目を買ってあげなかったのが悔やまれる。