社会貢献
ポール ニューマンが亡くなった。サラダ ドレッシングなどポール
ニューマン ブランド食品 [Newman's Own]の利益全額を難病で悩
む子供たちに寄付し、その他自ら参加したチャリティなど莫大な額
を寄付、多くの社会貢献をし、今後もその社会貢献は娘が継続し
ていくという。
1984年NYに訪ねて来た山岡久乃さんに、発足して間もないニュ
ーマンのチャリティのことを話すと早速ポールニューマンのサラダド
レッシングを買ってきた。
1982年発足したチャリティビジス、
ポール ニューマンの社会意識に感心し、いろいろ記事を集めていた
ので山岡さんにみせると”私もやりたい!”とすぐ叫んだ。
何年かたって山岡さんは癌で倒れ、72歳の生涯を閉じた。
皆に生かされてきたので、是非社会のために働きたいと眼を輝かせ
ていた山岡さん。病床を訪ねたとき、”たとえ車椅子の生活になった
としても、ぜひ社会のために何かやりたい。ケイ、一緒にやろう!
プロモーションをしてね”といっていた。
”ごめんなさい。けい”といって亡くなった山岡さん。振り向かずに
病室を去ったのが最後となった。
写真は山岡さんとサンフランシスコ大学教授・パットフェローロと彼
女の本を翻訳した当時の私。NYの私宅で。英語の話せない彼女が
パットとちゃんと通じ合って楽しんでいた。
山岡久乃さんは本当に私欲のない人でいつも人様の世話をしてい
た。志半ばで亡くなった山岡さんのことをポールニューマン死のテレ
ビ スクリーンを見ながら、彼女の残念さを切なく思いだす。
又、家族のように仲良しだった台湾の外交官、張超英さんも癌で
昨年亡くなった。彼の生涯は人のため、社会のため、台湾のために
奔走した熱血の人であった。
つい最近、56年前の母の手紙が出てきた。小さくたたんだ跡に
茶色のセロテープのマークがつき、紙質も悪く色あせ、セピア色に
なった母の手紙である。思えば母が52歳の時、東京の娘に書いた
手紙だ。
「母から恵への願い
日のさすところには皆神様がいます。よいことをすれば、よいことが
あるのは間違いありません。善行をしたか、いつも心に問う事。
悪行はしない。善行だけをする。此れをハンドバックの中に入れて
おきなさい」と書いてあった。すっかり忘れていた手紙に、善意に生
き抜いた母を懐かしく思う。
ポールニューマンにも山岡さんにも到底及ばないけれど、小さくて
もよいと自分で決めたラインの中で、種蒔きをし母の教えは守られ
ていると自負している。過ぎ行く月日の早さに驚き、人の命は短くて
・・・と感傷的になる。
人の死からいつも大きなものを教えられ、生きている意味を考えさせ
られている。