小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

発言しない日本の市民

2013-02-17 07:45:32 | 暮らしのジャーナル

いじめを見て知らん顔する人にも責任があると思う。

 日本に帰ってきていじめられ自殺をする子が多く、なぜ周りの人が黙っているのか摩訶不思議で心が痛む。
自分は関係ない、巻き込まれたくないことに黙っているのも社会性のなさではないだろうか。
 グループの人も、クラスの人も、家族の誰かも死に至るまで知らなかったわけがないと思う。

日常の社会生活でも社会に迷惑をかけた人に注意をすると、逆に危害をこうむったりする。
 
これが飛行機の中だと皆が危険をこうむるので協力を惜しまないけれど、自分に関係ないことは見ぬふりをする日本人。

校長は頭を下げて謝る。謝って解決する問題ではない。そしてこれからはいじめを正すコンサルタントを起用すという。何処かがくるっていはいないか。

 東日本大震災で人を思いやり、それを表現したり、語ったりするのも日本で起こった精神的ルネッサンスでかつて
親しい友人以外に心の中を語り、皆で悲しむことは少なかった。よい意味ではショック療法だったと思う。

 国会でも非難するときは大きい声で個人攻撃まで平気でする。公の時間だ。その前により良い自分の意見を発表すべきでないだろうか。

 いじめはいつの時代でもあった。私が小学生だった時、受け持ちの先生は癇癪を起すと生徒の後ろから頭を机の押し、音の出るほど強く
額を打った。また生徒を授業中立たせたりした。私は級長だったので皆で相談し、全員で教室を移動し、誰もいなくなった教室に授業
に来た先生を驚愕させた。私は職員室によばれ「なぜそういううことをするのか?」としごかれたとき、もし「先生が頭を打たれたらどう思いますか?
もうクラスの人を突然たたいたりしないでください。見ているのも悲しいです。言葉で注意するようにしてください」と抗議した。
 考えてみるとその時の先生は21歳ぐらいの女性教師だった。10歳ぐらいの生徒に何であれ痛みを与えるなど今考えても信じがたい。が起こっていた。

親の責任、グループの責任、クラスの責任、指導者の責任、社会全体の責任を各自が自覚しない限り、どこかで起きた誰かの事件で葬られる。

皆で発言していこう。