goo blog サービス終了のお知らせ 

観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

錦秋 法然院

2013年12月08日 | 旅・風景・グルメ
銀閣寺拝観の後、哲学の道を歩いて法然院に行った。
浄土宗の始祖、法然上人は、歴史で習ったから知っていたが、寺の法然院は知らなかった。法然院の公式HPによると“正式名は、「善気山 法然院 萬無教寺」
鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。
1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が
生じ、安楽・住蓮は死罪となり、法然上人は讃岐国へ流罪、その後草庵は久しく荒廃することとなった。”と書かれていた。
この話に裏はないのか検索すると
勢力を強めていた吉水(* 東山吉水(京都市東山区円山町)の法然門下に対し、危機感をもった他宗派は、興福寺を代表として朝廷に対し吉水教団の
撲滅を願い出た。そのため御所では念仏停止の是非を論ずる評議が行わていた。ちょうどその時に後鳥羽上皇が寵愛していた女房松虫・鈴虫の二人の
出家という事態に起きたのだ。それに上皇が激怒し、当時としては、珍しい死罪になったようだ。また、興福寺の訴えを取り上げ、念仏停止の裁断を下した。

この後鳥羽上皇、歴史上の人物としては嫌いなほうである。上皇は、天皇に即位していた期間は、14年余りだが土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇と3代
23年に渡り院政を敷いた人物。鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を企てて捕らえられ、隠岐に島流しされ、そこで没したという事は覚えているが、この話は知らなかった。





白砂壇(びゃくさだん)
山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているらしい。
拝観客は多いが、この白砂壇はあまり人気がないようだ。