散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」への違和感

2015年08月09日 | 歴史/戦後日本
「21世紀構想有識者懇談会」の報告書(H27/8/6)は次の内容になっている。
1)20世紀の世界と日本の歩みと教訓
2)戦後70年間、日本の歩みと評価
3)戦後70年間、各国との和解の歩み
4)21世紀の世界的ビジョンと日本の具体的施策

上記の報告をベースに首相談話が出されるわけだ。
この中で各国から注目されるのは1)と3)の部分であり、安倍首相がポイントにしたいのは2)と4)の部分だろうと筆者は推測する。このコントラスト自身が、日本の第二次大戦における無条件降伏を象徴するかのようである。

2)の正式な表現は「日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか」だ。ここでも安倍首相の意を汲んでか、“平和主義”を唱えている。それにしても、この長たらしい表現は何だろう?官僚主導で持ち込んだものとしか思えない。全体も顔や主張が見えない内容になっている。

先の米国議会において、安倍首相は"proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation"(国際協調の原則に基づく、平和への積極的貢献)と述べ、対応の和文は「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義という旗」とになっており、一言で云えば、国際協調主義なのであって、平和主義ではないのだ。
 『日米同盟における「ナルシシズム」の姿~安倍首相の米国議会演説150516』

そもそも、平和主義などという主義は政治的には存在しないはずだ。マックス・ウエーバーに倣えば、「(頬を打たれならば)もう一方の頬をも向けよ!」(職業としての政治)である。しかし、これは倫理であって、政治では無い。

こんなことは普通の人であれば、誰でも知っていることで、であるから、日常的な平和が大切だと感じるのだ。逆に安倍首相の云うことが、無意識のうちに軽く感じられ、結果として中味がないとの印象だけが残る。

最近の世論調査で、支持率が下がっているのも、安保法制を語る首相の言葉が、中味のない概念に終始し、聞き飽きたとの感覚を国民の間に残しているからだとも解釈できる。それは経済においても同じで、今や、アベノミクスという表現も使わなくなっている様に感じる。両方合わせて、飽き飽きしているのだ。

戦後日本は米国の占領体制から、日米安保のもとで、米国の核のカサに入る。自前の軍隊は自衛隊という軽武装集団であった。冷戦体制であっては、日本を軍事攻撃する国は考えられず、また、米と中ソとのフロントラインは韓国、台湾、南ベトナムで構成され、沖縄だけが米国の主要な軍事基地として機能していた。その意味で日本は平和を選択したわけではなく、平和に拘束されていただけだ。

勿論、本格的な再軍備を吉田首相が拒否し、経済発展に特化したことは、一つの選択的な要素ではあったが、米ソの対立と核兵器の発達は、日本の埒外の話なのだ。国際協調も経済発展による貿易の飛躍的増加、それに伴う日米経済摩擦を引き金の一つとしていることも確かだ。必ずしも、日本が積極的に国際協調に向かったとは云えない側面もあるのだ。

サクセスストーリーは悪くないが、幸運・偶然の契機を認識し、別の道も可能性があったことを胆に銘じて理解しておく必要もあるのではないか。