散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

山下真・生駒市長『橋下徹論』とヴァレリー『党派』(2)~「創造と破壊」との相克に関する一考察~

2012年06月02日 | 政治
山下真・生駒市長のツイッター5/25「橋下徹論」をポール・ヴァレリーの『党派』と突き合わせて浮かんできた感想の2回目。参考資料は以下。
山下真ツイログ
ポール・ヴァレリー「党派」『全集12 現代世界の考察』(筑摩書房)

大飯原発が再稼働確実に向かう中で、山下氏は5/31の朝、橋下市長の態度について「つぶやき」を残し、筆者はそれを通勤途上の電車で読んだ。そこで、偶々覚えていたヴァレリー「党派」の冒頭部分を引用して返信した。
山下氏「…大阪維新の会は、何を錦の御旗にして、国政に進出するのだろう。まさか、権力奪取そのものが目的とは言えないだろうし…」
筆者「かつて国に対していきり立たなかった党派はない ヴァレリー」

自ら権力を得るために、現権力に反対するのが「党派」であると簡潔に、深く、ユーモアを持って表現されている。では、ヴァレリーの立場は?「…特に、体系など持たず…疑わしいことは疑い、疑わしくないことは決して拒絶しないという自由をまだ持っている人々…」に本書を捧げると、序言に記している。

しかし、断るまでもなく、ヴァレリーの言う意味での“自由人”は俗に言うリベラル、リヴァタリアン、新自由主義者などではない。

さて、山下氏はツイッターでの橋下市長の熱心な支持者に以下の傾向を見出し、
1)本質的でないこと、つまり瑣末なことで相手を批判すること
2)言葉が感情的で品がないこと
次のように分析する。

「…この傾向に気付いて、また、私は新たな発見をした。この特徴は橋下市長と同じ…」「支持者も政治家に似てくるのか、似ているから熱心に応援するのか」
この傾向は橋下スタイルの本質的な部分のようであり、それを捉えた感覚と分析はさすがに鋭いものがある。

その分析によれば、政治に対して不信(=過信)を持ち、しかし、それを表現できないで生活していた人が、彗星の如く現れた救世主によって感情を励起され、品のない攻撃的言語を用いるようになった、と推察できる。この熱心な層が橋下支持の中でどの程度の重みがあるのか、不明だが、好むと好まざるとに拘わらずその情報に晒された人が共通して感じるのは、おそらく、その一方的な激しさだ。

ヴァレリー「気質から、創造派であるものと保守派であるものと破壊派であるものとがある。各個人は、その言葉の党やその念願の党ではない、その存在と行動様式、反動様式の党であるその真の党に入れられるべきだ」(「党派」P46)。特に政治状況が熱せられてくると、ヴァレリーの言葉は真実味を帯びて感じさせる。それは気質を励起し、顕在化させるからだ。

創造も保守も破壊も、人間の属性であるから、ひとりの人間にはそれぞれの要素が潜むはずだ。単に分類するだけでは表面的な理解に終わるだろう。いや、創造性が高い人間は破壊的要素も大きいのかもしれない。山下氏がツイッター上で遭遇したことは、シェークスピアが『ジュリアス・シーザー』で描く処のローマ市民の反応に似ているように思う。

しかし、市民が駆け去った後、アントニーが「あとはなりゆきに任せればいい」と言うように、熱せられた政治状況を感じる人間にとって、創造と破壊を意識的に使い分けることは極めて困難なのだ。橋下氏の思惑を越えて反応する層の圧力が、コントロールされずにネット上を闊歩している印象を受ける。何故か?行政の既得権益を規制する橋下市長の施策によって、彼らの感覚に“権力の味”が付け加わったからではないだろうか?ここでは破壊が全面化する。

「結果の平等よりも機会の平等を重視、自由競争により既得権益をぶっ壊して、閉塞感を打破」するのが橋下市長の政策であり、しかし、それは「激烈な競争の結果、新たな既得権益層が出てくる一方、競争に敗れた人は今以上に苛烈な状況」をつくり、「日本より市場主義が徹底し、社会保障が貧弱なアメリカに近付き、今よりもっと閉塞感のある社会」にすると山下氏は主張する。

ツイッター上では政策を言い表せないように思うが、橋下氏を介しての山下氏の主張は極めて単純であり、一方的な立場の表明になっている。しかし、どのような政策であれ、その主張の方法、更に実現の方法に政治的気質が反映する処に問題があるとヴァレリーは注意を促している。ここに政治家・山下市長と自由人・ヴァレリーの立ち位置に差異が現れてくる。

筆者は「『スイミー』としての橋下徹 2012/3/5」で以下のように指摘した。
1)急速に膨張する集団には政治的オポチュニストも存在する。従って、その発露を抑えることが必要になる。
2)討論を越えた過剰な言語による攻撃は、不特定多数の有権者に対し、ネガティブな攻撃性を助長することが想像できる。
3)更に2)の攻撃性が1)にフィードバックされると悪循環になる。

山下氏の指摘は2)にミートする。しかし、問題は3)である。大飯原発問題での態度、突如に大阪維新の会によって提出された「家庭教育支援条例案」、これらは既に3)の現象に突入しているかのようである。このことは橋下氏の政治スタイルが「曲がり角」にきたこと、リーダーシップとしても分岐点であり、移行時期にきたことを示唆している。以下が取りあえず、筆者の試論になる。
「有効な支配を継続する分岐点-制度型/機構型 2012/5/5」

       
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