先の記事(3月14日付)において、自分史の出版による読者(稀少ではあるが…)の誕生、その読者と筆者との対話が潜在的にでも存在すると考えた。そうであれば、「著者(筆者)」と「自分」(読者としての)との間にも対話が成立するはずだ。いや、それは執筆を決めた時から始まっていたのだ。
『或るベビーブーム世代の生活世界~個人・住民・Citizen~』の「はじめに」は、
1.「ベビーブーム世代」と「団塊世代」
2.「個人―生活世界―社会」
3.時の旅人~筆者が「自分」を探検する
以上の三項目から構成されており、主に『3』がそれに当たる。
実際、原稿はA4版で書いたが、最初に書き上げたものは、「市井人の自分史」としては、類似の出版物と比べて分量が極めて多かった。そこで、自らの軌跡を描くなかでの関連を考慮して、削減せざるを得ないものを選び出した。但し、それは筆者の判断であって、自分としては不満ながらも納得して出版を急ぐようにした。
出版後の献本、感想等の受理・返信等も一段落した現在、改めて削除せざるを得なかった部分を読み直し、筆者に加えて著者の視点からも文章として残したいとの気持ちが盛り上がり、先の「余滴」との表現を借りて本ブログに投稿することにした。
なお、「余滴」との表現は以下の永井陽之助の論文から借用させて頂いた。
「現代史の神話―「冷戦史研究余滴(1)」『歴史と人物』1973年5月号(中央公論社)
「原爆投下の決定―「冷戦史研究余滴(2)」『歴史と人物』1973年8月号(中央公論社)