散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

戦後日本の復興を担う首相は「肉体政治」で決まる~吉田茂 in『負けて、勝つ』~

2012年09月22日 | 政治
戦後初の総選挙に自由党党首として勝利し、首相の座を射止めたはずの鳩山一郎。しかし、その瞬間にGHQから戦犯として追放される。軍の後押しで戦意を昂揚した、日和見主義者としての戦前の言動を外国人記者会見で追及された。
鳩山一郎と吉田茂との夜の料亭での会合。ここは密約説、吉田に首相を委ねて戻ったら鳩山を首相にする…、を実質的に取り交わした場面だろう。描写は、吉田が帰るのを古島一雄?(『宰相吉田茂』から類推)が足にしがみついて止めた。場面が変わって、吉田は「やめたいときはやめる」などの留保を付けて首相を引き受けた。この間、丸山真男が論じた「肉体政治」が鮮やかに描写されている!

丸山は言う。「…道徳なり社会規範が既知の関係のみで通用すること、既知の関係における義理堅さと未知の関係における破廉恥的なふるまいとが共存すること、…」、これを「関係を含んだ人間関係」と表現し、感性的=自然的所与から精神的次元の独立を妨げる日本的な肉感的風土を鋭く批判した(「肉体文学から肉体政治まで」『現代政治の思想と行動』(岩波)所収、初出(1949))。1970年頃に出された『甘えの構造』(土居健郎)、『成熟と喪失』(江藤淳)は、この肉感的風土における“父母―子ども”の関係に焦点を当て、同様の問題意識で論じている。

閑話休題。第2回のハイライト!と言いたくなるが、そうだろうか?その一方で、新憲法案の天皇の地位、象徴性について、吉田は日本政府の見解をマッカーサーに申し入れる場面がある。この場面では、長期にわたり日本の政治状況を規定した大問題が話されたのであるから、本来、料亭政治よりは重要なはずである。しかし、単に吉田が申し入れ、マッカーサーがはね除けた簡単な描写だ。現実に何が話されたのか、記録、手記等が残っているのか、筆者は調べていないが。

ドラマを構成する以上は、状況に合わせて山場を構成する想像力を必要とする。「外交で勝った」という吉田の言葉を、単なる負け惜しみの修辞でないと表現したいならば、である。先の論考で丸山は、ジャン・コクトーの映画「恐るべき親達」を見た感想を「親子や兄弟の間でまきちらされる言葉が実にトリヴィアルな問答まで一つ一つピチピチとした生気を湛えているのには圧倒されたね」と述べ、社交的精神が欧米社会とその政治の基盤にあることを示唆した。
三島由紀夫の戯曲に匹敵させることは望むべくもないが、「肉体政治」の描写を超えなければ、すなわち、吉田とマッカーサーの間にある「政治的精神」を“劇”として表現できなければ、このドラマは失敗作になるだろう。

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