朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

常磐津

2008-12-25 | 伝統芸能
日本芸能史の講義です。
 今回は、常磐津。講師は、常磐津 都喜蔵 (ときわづ・ときぞう)※都喜蔵の「喜」は正しくは七が三つ。三味線の実演もおこなわれました。伴奏は、常磐津都史さん。モデレータ(司会)は、田口章子教授でした。
 日本舞踊には、唄系の「長唄」と、浄瑠璃系の「常磐津」「清元」とに二分される。常磐津は、歌舞伎の劇場音楽として、所作事の伴奏音楽の性質がある。
 舞踊との結びつきは、長唄のほうが古いが、「豊後節」(享保、宝暦期)を源流として、「常磐津」が生まれ、次に「富本」が興り(現在は衰退)、その分流として「清元」が生まれた。
 豊後節は当時大変に流行したが、あまりに民衆が熱中した、また心中が流行しため幕府はこれを禁止した。流派を改名して、江戸の麹町浅草口の常盤橋あたりに住んでいた師匠が、常盤津文字太夫と名乗った。その後、「盤」の字を、破れやすい「皿」から磐石の「石」に改めたと伝えられる。
 清元は、叙情的、ムード派だそうで、踊りよりは動きや表情で見せる特徴がある。
 常磐津は、より所作事的(?)であり、調子やイキの強さが重要となる。
 歌舞伎舞踊の完成に常磐津が果たした役割は大きい。
 江戸時代、常磐津の流行は町々におよび、「何文字」と名乗る女師匠が氾濫した。式亭三馬の「浮世床」の挿画に「常磐津黒文字」との看板が描かれたり、女師匠たちの江嶋詣の錦絵などにその例が見られる。
 
 出語り「積恋雪関戸」(つもるこいゆきのせきのと)を、三味線の弾き語りで演奏された。通常、語りは太夫の役割で、三味線方は語らない。従って、大変貴重な演奏でありました。

 なお、常磐津と清元の違いは、言葉では説明できない、聞いて違いを理解するべしとのことでありました。(よって、素人的には(ほぼ)同じものとしておきましょう)

 文楽での、三味線の演奏のときもそう感じましたが、今回もこの伝統的楽器の表現の豊かさに驚きました。


(講義メモ)
 三味線演者の数え方は「丁」、語り方は「枚」。例えば、出語りで「二丁三枚」とか、大きな劇場では「三丁四枚」と表現する。
 紋は、角ばった「かくもっこ」
 見台は、俗称「たこ足」で、他の流儀と区別しやすい。
 三味線は、永禄4、5年に堺港に入って来た。琵琶法師が当初は演奏した。撥(ばち)を使う。弦楽器ではあるが、打楽器ともいえる。
 弦の内、一本は、「さわり山」から少し離れる様に調整する。この効果として、倍音が発生して音がつながり濃くなびく(ビブラート?)。
 弦を縛るのは「こより」、和紙をよって自分で作る。
 本調子、二上り、三下り。
 本調子、上調子。「上調子」は派手な感じを生み出す。転調して盛り上げる。
 「前びき」とは、幕が開く前の序奏で、三味線だけの見せ場でもある。
 隅田川の乗り合い船。にぎやかに。
 心中もの。必死で逃げる、その感じを演奏する。
 三味線での「擬音」の例:雨、雷(が落ちたあと雷神がきょろきょろするところ)
 三味線は、普通、座って弾くが、昔の版画に行進パレードで弾いている珍しい絵がある。
 今でも、新内(しんない)流しは立って弾く。
コメント
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