石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎)

2016-01-01 07:39:25 | 遺跡巡り

明けましておめでとうございます。

新年幕開けは、表題のごとく、スリランカの仏教関連世界遺産巡り。

ひょんなことから、去年の暮、スリランカへ旅行してきたので、その報告です。

ひょんなことというのは、旅行に誘ってくれたのが、娘だったこと。

娘と云っても52歳のおばさんですが。

「どこか暖かい所へ」というので、バリ島などをイメージしていたら、行き先はスリランカだという。

候補地としてまるで思いもしない国で驚いたが、私の石仏趣味を計算のうえでの選択だったらしい。

これが見事に的中、大満足の石仏巡りとなりました。

 

小乗仏教の国、紅茶の産出国くらいしかスリランカについての知識のないまま、12月中旬、バンダラナイケ空港に着陸。

入管に向かう通路の正面でお釈迦さまがお出迎え。

さすが仏教大国です。

翌日、アヌラーダブラへの車中、ガイド氏が説明した1951年のサンフランシスコ対日講和条約秘話も印象的でした。

日本の分割統治を主張するソ連などに対して、セイロンのジャワワルダネ全権は「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」と仏陀の言葉を引用し、賠償請求権を放棄しました。

この言葉によって日本は分割統治されずにすみます。

この史実は、スリランカでは教科書に載っていて、スリランカ人なら知らない人はいないそうですが、恩恵をこうむった日本ではほとんど知られていません。

私が感銘を受けたのは、そうした世界的な会議で、仏典の一節をさらりと口にするスリランカのリーダーの文化度の高さです。

       スリランカ国会議事堂

仏教が生活の中に組み込まれ、溶け込んでいる国でなければ、こうした人物は輩出しないでしょう。

「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」。

 近隣のどこかの国の人たちに耳を傾けてほしいことばです。

もちろん日本人の私たちもですが・・・

 

スリランカは北海道の8割ほどの広さに8つの世界遺産があります。

今回の旅行は、そのうち仏教関連世界遺産5か所を回ろうと云うもの。

コロンボ⇒アヌラーダブラ(+ミヒンターレ)⇒ボロンナルワ⇒シギリヤ⇒ダンブッラ⇒キャンディ⇒コロンボ

 

北から南への仏教遺跡の連なりは、他国からの侵略軍に敗北して、山地の内奥へと拠点を移しつつ、後退し続けたスリランカ仏教王国の足跡でもあります。

 

ニゴンボのホテルを朝8時に出発、午後2時近く、アヌラーダプラに到着。

真冬の東京から来て、一転、炎天下の長時間ドライブは77歳の身にこたえる。

しかし、「疲れた」などと云っていられない。

なにしろ旅行プランでは、アヌラーダプラ観光にかける時間は、わずか1時間半。

世界遺産の宝の山に入るのに、いくらなんでもそれでは短時間すぎるとガイドさんに頼んでちょっと延長してもらったばかり。

紀元前4世紀、バンドゥカバヤ王がここに都を定め、西暦993年に南インドのタミル国家の侵略を受けるまで、およそ1400年もの間、アヌラーダプラは仏教徒政治の中心地として栄えてきました。

紀元前3世紀に仏教が伝来してからは、歴代の王は仏教保護に努め、仏塔や寺院を建築、これらの遺蹟は40平方キロにわたり点在しています。

駆け足観光は、その遺蹟地帯を南から北に走り抜けることに。

まずは、南端のイスルムニヤ精舎(しょうじゃ)へ。

精舎とは聞きなれない言葉ですが、「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」(平家物語)のあの精舎です。

◇イスルムニャ精舎

スリランカで初めて仏教を受容したデーバアナンピヤ・ティッサ王が、アヌラーダプラを仏都とすべく、その第一歩として建てたのが、イスルムニヤ精舎。

 

スリー・マハ菩提樹も仏歯も、当初はここにありました。

精舎が創立されたのは、紀元前3世紀、スリランカに仏教が伝わった直後のことです。

日本では、縄文時代の終わりころということになります。

当時の日本にとっての先進国・中国に仏教が伝わったのは、1世紀ですから、それよりもずっと昔のこと。

そんな凄い史跡にいるんだと思うと、なんとなくゾクゾクする。

料金所の傍の塀には履物がズラリ。

スリランカの寺院では、裸足、脱帽が決まり。

ただし、靴下はOKです。

料金所で入場料を払うガイド氏。

スリランカの人たちはタダ。

外国観光客からだけの徴収です。

このイスルムニャ精舎だけなら200ルピー(約200円弱)、アヌラーダプラ全体の観光入場料はUS25$だということを帰国後知った。

食事も観光もすべてガイドまかせの「殿さま観光」は、楽と云えば楽だが、こうした金銭感覚に疎くなるのが欠点でしょう。

まずは、本堂へ。

本堂は、アヌラーダプラでは珍しい石窟寺院。

屋根付きの建物で石窟を覆った形になっています。

本堂へ上がる石段の前にスリランカ寺院では定番のムーンストーンがある。

ムーンストーンは、花崗岩か石灰岩にデザインを浮き彫りした半円形の敷石。

参拝者のための清め石で、裸足でこの石に乗り、浮彫の聖獣を見ながら、心を清め、鎮めさせる役割がある。

いかなる寺院でもムーンストーンから奥は聖域ということになります。

そして、石段の最下段手前両側にあるのが、ガードストーン。

本尊を外部の悪魔から守る守門神で、日本で云えば、さしずめ仁王様か。

このムーンストーンとガードストーンについては、のちほど何度か取り上げる予定。

本堂に入る。

正面にお釈迦さまが横になっておわす。

いわゆる「寝釈迦」だが、これは「横臥像」なのか「涅槃像」なのか。

ガイド氏は「両足の指が重なって揃っていなければ、涅槃像」だと云う。

 ほんのわずか、上の左足が後ろにずれているようだ。

しかし、涅槃像ではない横臥像にいかなる意味があるのだろう。

 それにしても「寝釈迦」さまの朱色は、どぎつすぎはしないか。

日本人がスリランカの仏像を見て誤解する条件の一つが彩色。

色落ちすればすぐ塗り替えるスリランカでは、ピカピカの仏さまであっても新しいとは限らない。

彩色が落ち、木肌に虫食いの跡が残る木像仏にわびさびを感じる日本人は、ピカピカの仏さまには厳かさを感じない。

「なんだこんな新しい仏像」とつい軽視しがちなので、要注意。

更に注意を喚起するとすれば、これは磨崖仏であること。

ほとんど丸彫りに近いので、つい忘れがちになるが、背後の岩を彫ったもの、背中の一部はつながっているはずです。

重機もない時代、どこか別の場所で彫って運んできたと考える方が不自然でしょう。

もう一つ、余計な情報を付け加えれば、この本堂の総ての石像の彩色は、日本の浅草寺の援助でおこなわれているのだとか。

日本の寺にふさわしい援助は他にもあろうかと思われるが、ま、余計なお節介でしょうか。

「寝釈迦」の頭の横の4体の仏像は、中の朱色の衣の座像と立像は、ゴータマ・シッタルーダ(悟りを得る前のお釈迦さま)。向かって右は、高弟シャリープトラ(舎利発)、左の茶色の衣は、高弟アーナンダ(阿難陀)。

その隣のブルーの装いの男は、このイスルムニャ精舎の創立者・デーバアナンピヤ・ティッサ王と云われています。≪続く≫