石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物1(東京都葛飾区)

2016-11-11 07:10:08 | 街道

「新宿」と書いて「にいじゅく」と呼ぶ地域が、都内にあるのを知っている人は少数派ではないか。

最寄駅は、常磐線亀有駅。

駅から徒歩7分、水戸街道の中川橋を渡ると新宿に入る。

   中川の右側が、葛飾区新宿。

上は『名所江戸百景』の「にい宿のわたし」。

亀有川から中川を俯瞰した絵図で、遠くに筑波山が見える。

「新宿」の文字から察せられるように、「しんじゅく」は甲州街道の、「にいじゅく」は水戸街道の宿場でした。

水戸街道から分岐する成田街道の始発点が、新宿(にいじゅく)だということになります。

水戸街道を直角に右折すると、やや狭い道が、眠たげに南へ延びています。

信号から右折するのが、成田街道。中川橋を渡って50mくらい東。

それが成田街道。

往時の面影などどこにもない、ありふれたつまらない道です。

最初の寄り道は、

◇浄土宗覚林山宝樹院西念寺(葛飾区新宿2)

本堂に向かって左に、真新しい聖観音立像がおわします。

区の登録文化財として指定されているのが、「解(とき)念仏供養碑」。

この供養碑は、舟形光背に仏像を高肉彫りしたもので、刻銘によって解念仏供養の造立と判明できます。解(とき)は、斎から来たもので、斎の意味から、昼の食事の前に行う念仏講の供養塔であるといえます」(葛飾区教育委員会)

解念仏供養碑は2基あって、八臂の観音さまは、享保7年(1722)の造立。

お地蔵さんの刻銘はないが、同時代造立のものと思われています。

この2体の解念仏供養碑は珍しいが、更なる珍品が、その隣の「生簀守の墓」。

将軍の鷹狩りに際し、食事に供したのは、生け簀の魚だったらしい。

その生け簀の池守を務めたのが、矢作藤左衛門とその子孫。

これは初代矢作騰左衛門の墓だが、崩壊して観音像であることも分かりません。

本人が生前建てた自らの墓である逆修塔だと言われています。

ここまで崩壊する前に現代技術で崩壊の進行をストップさせるべきか、いや、自然に任せてこのまま土に還らせた方がいいと考えるのか、議論の分かれる所です。

珍しいといえば、鯖大師も珍しい。

伝承の中の弘法大師は、親切な接待を受けた村々では、さまざまな奇跡を現わして村人の好意に報いるのであるが、不親切であった人々には、決して寛容ではなかった。(中略)
鯖大師は、大師から鯖一匹を求められた魚売りが断ったところ、所持の魚がすべて腐ってしまったという伝承に基づく造像であり、多くはないが、各地に造立されている」(『日本石仏図典』より)

西念寺を出ると道は緩やかに左カーブ。

そのまま進むと現在の水戸街道、国道6号にぶつかります。

バスが停車しているのが、成田街道、横断するのが国道6号、成田街道は国道の向こうの一方通行へと続く。

その手前に石柱があって「金阿弥橋」とプレートされている。

橋だとすると石柱を結ぶ鉄菅は欄干ということになり、目をあげると今や暗渠となった川らしき緩やかな曲線が目に入ります。

暗渠となった用水路は、国道6号を横切って南下し、それに沿って成田街道が走っていました。

持参資料によれば、信号「中川大橋東」の下に道標があるはずなので、探すが見当たらない。

    信号の下の空き地に道標があった。

所有者の蕎麦屋が廃業し、道標は葛飾区立郷土博物館に保存されているのだとか。

せめてレプリカを建てて置いてくれれば、と思うのですが。

特に見るものもないまま、10分ほど歩くと交番があって、その先を左に入ったところに地蔵堂がある。

左端の石柱は、道標。

上部の浮彫は仏ではなく、猿。

石柱三面に猿を配する庚申塔を兼ねた道標です。

文字は解読不能なので資料によれば、正面は「これより右ハ下川原村 さくら海道」、右側面には「これより左 下の割への道」と刻されているらしい。

「下の割」とは、現在の江戸川区ということだから、成田街道の道標としては当然の刻文ということになります。

隣にあるのは「下河原北向地蔵」。

別の場所から移転した来たもので、確かに北向きではあるけれど・・・

隣のお地蔵さんは、庚申塔で、「正徳二壬辰十月十五日」と読める。

しばらく歩くとJRの貨物線踏切がある。

その手前右に青龍神社の標識。

長い参道を行くと左に蓮池が広がる素晴らしい景観の神社。

景観はいいが、見るべき石造物は皆無で、寄り道した甲斐はない。

◇曹洞宗海島山崇福寺(葛飾区高砂7)

崇福寺は、前橋藩主酒井雅楽守家の菩提寺。

本堂左前に「春ちゃん地蔵」なる小型墓標がある。

傍らの説明板によれば、浅草の元崇福寺の寺域から偶然に掘りだされたもので、300年前の墓だとか。

寺の過去帳には記載されていないが、「萌春童子」とあるので、「春ちゃん地蔵」と呼んでいるとのこと。

ただひたすら歩いて、うんざりする頃「柴又5丁目」の交差点に着く。

柴又街道との交差点。

ここに道標があって、「さくらみち」と読めます。

 

裏に回ると「旧佐倉街道」となっています。

 

佐倉街道と成田街道は同じ道。

「佐倉」にちなんで「さくらみち」と称し、名前負けしないように道の両側に桜を植えて、超長い桜並木を出現させた。

役所仕事にしては、粋な事業と私は高評価します。

折角なので、ネット検索で桜の季節の「さくらみち」を探して、載せておきます。

 次回更新日は、11月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

▽「成田街道道中記」

http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


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