成田市に入って最初の目的地は、「不動塚」。
「公津の杜入口」の次の信号でR51と別れ、旧道は右へと分岐する。
次にR409と合流し、坂を下り、上ったところが並木坂上。
松並木が美しい坂だったのだろうが、その面影は、今は、皆無。
並木坂上を右折、300m程行くと、JR線にぶつかるのだが、不動塚はその曲がり角にある。
境内全体が工事中で、古い樹木は全部伐採されている。
丸裸のまま日差しに照らされて、宗教施設の厳かさはどこにもない。
不動塚の表札を付けた小屋がある。
ここが成田山新勝寺の不動明王が最初に鎮座した場所と言われている。
それを証するかのように「成田山旧蹟 不動塚之碑」がある。
十九夜塔の小堂の中には子安観音が、
そして工事のためだろうか、二十三夜塔の勢至菩薩が野ざらしのまま、まぶしそうに目を細めている。
並木坂上まで戻って、北進。
R51と交差してさらにまっすぐ進む。
ここからは県道になる。
垣根が手入れされて美しい。
この辺り歩道が狭いうえに、下は下水が流れているのだが、その下水の蓋が滑らかなコンクリートで、実に歩きやすい。
通りの名前は「一本松通」。
まもなくその「一本松跡」の石碑がある三叉路に出る。
その名の通り、松並木のうちの1本だけが昭和51年まで残っていたのだそうだ。
今は、人の背くらいの小さな松が植えられている。
昔と同じ景色になるには、あと何年かかるのだろう。
聞くところによれば、往時、成田山参道の旅籠屋の客引きは、ここまで出張っていたという。
「一本松跡」の石碑の隣に立つのは、馬頭観音。
道標を兼ねていて「宗吾堂道」と刻されている(らしい)。
一本松通りを進む。
JRの踏切を過ぎ、
京成の高架橋を渡った左が不動が岡の不動尊旧蹟。
安政5年(1858)、新勝寺の本堂が完成、本尊不動明王が、先ほど寄った不動塚から移されることになったが、あまりにも距離が遠いということで、この地に仮の安置所を造り、入仏供養の行列はここから新勝寺へと向かったという。
右の覆屋には、4体の弘法大師。
境内には、「奉納永代護摩木山」の石塔が2基おわす。
「不動ヶ岡」という地名、弘法大師像や護摩木山碑、成田街道ならではの事物であり、成田山新勝寺が近づいていることを感じさせる。
成田街道は尾根筋を走り、右に京成、
左にJRを見下ろす形で進む。
急に行きかう人の数も多くなり、駅前に差し掛かったことが分かる。
駅前に着いたら、権現山に寄ってみよう。
権現山は、JR成田駅に向かって右、交番の後ろ、高い木が一本見える場所。
境内には、多数の石造物がひしめいて、石造物おたくには、たまらない場所でしょう。
成田の夏祭り「祇園祭」は、元々、この湯殿山権現社の祭でした。
湯殿山権現社の御祭神は、牛頭天王。
牛頭天王といえば、京都・八坂神社、八坂神社といえば、祇園祭、だから、成田の祭は祇園祭というのです。
権現山に入ると右にずらっと弘法大師座像。
「御膳料」や「護摩木山」の巨碑が何基も目に付く。
見上げるような宝篋印塔の台石には、びっしりと講中の名前が刻み込まれている。
巨大な石塔に交じって、小型の石仏もあって、ほっとする。
馬頭観音像は、なかなか素敵な像容。
文字青面金剛もある。
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