「博物館入口」の信号を過ぎると、左に「巴屋菓子舗」。
その角を右折し、すぐ左折する。
ここが成田街道の再スタート地点となる。
いまどき珍しい茅葺の家がある。
江戸、明治の頃の、この界隈をイメージするよすがとして役立ちそう。
ここ田町は、旅人相手の店と城内の生活物資を担う商家が多かった。
どことなく往時の面影を残すこの道の印象を決定づけているのは、北方向の急坂。
「海隣寺坂」をやっとこさ上がる。
昔は、荷車の後押しを業とする者たちがいたのだそうな。
「さもありなむ」と一人頷く。
坂を上がると右に、町名と坂名の元となった「海隣寺」山門が見える。
境内に、寒念仏搭がぽつんとある。
市役所の一画にある墓地には、いかにも古そうな中世の宝篋印塔などの石造物が並んでいる。
本佐倉城の城主・千葉一族の墓。
台石に掘られた「阿弥」とか「阿」は、時宗の法名で、、例えば千葉昌胤の法名は、「法阿弥」です。(『成田街道いま昔』より)
市の文化財に指定されているこれらの石造物はきちんと補修されているが、その他の墓石は3.11地震で倒れたまま放置されている。
痛ましい。
もはや半分土中に埋もれかけた墓石もあって、「土に還る」とはこのことか、と、しばし,凝視する。
新町方向に歩いていると左に朱色の旧式郵便ポストがある。
どうやら無人の廃屋らしい建物も、往時の面影を色濃く残して、絵になる光景を成している。
新町の三叉路を、成田街道は左折するのだが、直進して次の信号を右折、佐倉城址へ進む。
城への道が直線的ではなく、右左折を重ねるのは、城下町のパターン。
麻賀多(まかた)神社は、佐倉の総鎮守。
歴代藩主の篤い信仰に支えられてきた。
珍しい名前で、この地域にだけ18社しかないので、「十八麻賀多」というらしい。
境内には、恵比寿と福禄寿がいるが、これは、佐倉七福神の内の二神。
恵比寿さんの標柱には「なで恵比寿」とあり、「末社 疱瘡神社」とも表示してある。
恵比寿さんが疱瘡神と関わりがあるのだろうか。
その麻賀多神社から城へと進むとまず目に入るのが、大手門跡の石柱。
大手門の内側に武家屋敷が広がっていた。
佐倉城址が一見、城跡とは見えないのは、石垣がないから。
石垣の他の石造物もほとんど見られない。
わずかに、二の丸跡の正岡子規の句碑が、石造物といえようか。
「常盤木や 冬されまさる 城のあと」
明治27年(1894)、千葉県内初の鉄道として、総武鉄道市川・佐倉間が開通、新聞『日本』の記者として取材に来た子規が詠んだ一句。
もう一か所の石造物は、城の基礎石群。
歴博を建てる事前調査の段階で、発掘されたもの。
石造物ではないが、堀田正睦公の銅像は外せないだろう。
数多くの佐倉藩主のなかでも英明さは群を抜いていた。
幕末の幕府老中首座として、ハリスと交渉に当たったことは、よく知られている。
大手門跡まで戻り、坂を下りて、武家屋敷を観光。
華美さを排除した、いかにも武家屋敷といわんばかりの、質素な家屋に感心。
新町まで戻ろうと思い、観光協会作成の地図を広げたら、「下総まわたし宿百観音」が目に入ってきた。
「馬渡の旧街道沿いの小道を入り、石造りの階段を登ると、その両側に観音様が一列に並び立っています。全部で百体あるので、百観音と呼ばれています」と紹介されている。
JR佐倉駅の東で、ちょっと遠いが、石造物巡りが主旨のブログとしては、無視できない情報で、行って見ることに。
馬渡(まわたし)は、千葉と佐倉を結ぶ久千葉街道で、最も賑わった宿場。
閑散として、人通りのない道の傍らにこんもりとした林に覆われた山地があり、細い石段の小道が上へと延びている。
頭上に「下総まわたし宿百観音」の横書き看板。
入口右側に2基の庚申塔がある。
この辺りの庚申塔は、もはや作神であり、繁栄神だったから、宿場の弥栄を祈願して置かれたのだろう。
石段の両側に石仏が並んでいる。
右側には坂東三十三観音が、
そして、左側には、秩父三十四観音が並んでいる。
石段を上り切って右へ曲がると、両側に並ぶのが、西国三十三観音本尊群。
併せて百観音巡りは、当時、庶民が生涯成し遂げたい夢だった。
現実的には不可能な願望を、形だけでも達成したいとして設けられたのが、このミニ霊場巡り。
四国八十八か所や西国三十三観音霊場、秩父三十四か所札所巡りのミニチュアは、全国どこにでもあるが、百観音霊場となるとかなり珍しい。
しかし、信仰心からミニ霊場を訪れる人は、もはや、絶無。
私のような石仏愛好家が時おり来るだけのようで、石段には、杉の落ち葉が積み重なって、人が通った跡がない。
市内へ戻ろうと歩き始めたら、すぐそばに神社があるのに気付いて、立ち寄ってみる。
鳥居と石段の間の両側に石塔が並んでいる。
左側には、「秩父三十四番と善光寺参拝記念塔」が、
右側には「出羽三山参拝記念塔」が列を成している。
その左右の違いは、百観音の並び方そっくりで、どっちかが真似たのではないか。
付け加えれば、左側の記念塔には、女性の名が、右側には、男性の名が刻まれている。
二十三夜で男たちが集まれば、十九夜には、女が集う。
男が出羽三山へ行くのなら、女は、秩父から善光寺へと足を延ばす。
男女格差は、想像以上に少なかったのです。
再び、市内に戻って、新町通りへ。
地図上、お城は左方向にあるのだが、新町通りを右(成田方向)から来て、左折して右折する、ジグザクになっているのは、城下町の特色。
通りに面して、220年前の呉服屋の建物があったりして、時代の古さが漂っている。
おはやし館の前庭には、高札場が復元されていて、高札がかかっている。
「人たるもの 五倫の道を正しくすべき事」。
おはやし館からすぐ先を左に入ると佐倉城主堀田家の菩提寺・甚大寺がある。
ちょっと奥まった墓所に堀田家累代の墓がゆったりと並んでいる。
全景が撮れないほど、一人ずつの墓が大きい。
城址があって、歴代藩主の墓がある。
歴史のある町はいいな、とつくづく思う。
ただ佐倉は、坂が多いのが、私にとってはマイナスだが・・・
成田街道へ戻り、東進。
本町交差点手前に、佐倉順天堂記念館がある。
佐倉の観光名所ではあるが、石造物は皆無なので、パス。
本町を左折して、神明社に寄り道する。
神社のある町名は「大蛇(おおじゃ)町」。
「だいじゃ」ではないから救われるが、それにしてもおどろおどろしい。
鳥居の前に石造物群。
大日如来の立像がひときわ目を引く。
祠がある。
のぞいてみたら「蛭子大明神」だった。
「えびす」ではなく「ひるこ」と読むのだそうだ。
街道に戻る。
「昌栢寺」を過ぎるとすぐ右にコンビニが現れる。
コンビニを挟んで道は二股に分かれ、その分岐点に地蔵が2体忘れられたように身を寄せ合っている。
背の高い方は、延享5年(1748)の造立。
墓標ではないから、道中安全祈願か。
旧道は、右の坂を下りて行ったようだ。
下ったと思ったらすぐ上りはじめ、合流する。
もうそこが酒々井町。
酒々井町に入るとすぐ道は分岐して、成田街道は左へ。
次回更新日は、1月26日です。