(*前回がNO9だったから、今回はNO10であるべきなのに、NO11なのは、NO10を不覚にも消去してしまったから。10月の中旬、仕上げて保存しておいたものを、今、upしているのだが、NO10が「記事一覧」にない。前原東5の百庚申や御嶽神社の出羽三山碑群などを経て薬円台に至る間の記録を再作成するには時間がない。とりあえず、NO11をUPしておきます。)
前原東から滝台に入ってすぐ、東福寺の脇に、成田街道に面して4基の石造物がある。
馬頭観音と道標のようだが、よく分からない。
もう十分役目を果たして、粗大ごみになる日も遠くないと思われる。
京成薬園台駅入口のちょっと先を右折。
◇高幢庵(薬円台-4-1)
地名は「薬円台」で、駅名は「薬園台」。
幕府の薬草園があったから、薬園台なのに、戦後の地名改悪で「薬円台」になった。
あまりにばかげていて、腹立たしい。
由緒ある薬園台は、高校と駅の名前に残るだけという。
高幢庵には、その幕府の薬草園の初代管理人で本草楽の大家、丹羽正伯追悼供養塔がある。(写真を撮り損ねた!)
墓地の隅に半ば埋もれたような舟形光背地蔵がおわす。
右に寛保三年(1743)、左に「薬園台村」と刻されている。
これが薬園台村の初出らしいが、薬園の衰退とともに新田開発が進み、薬園台新田と称されるようになる。
成田街道から薬園台駅方向へ。
駅前の住宅地の小路を右左折しながら進むと
◇八幡神社(滝台町98)
いくつかの小祠に囲まれて青面金剛像がある。
中々立派な彫りだが、よく見ると邪鬼の右足が踏んづけているのは、女ではないか。
腰の線は、腰巻の紐か。
芸が細かい。
成田街道に戻って、東へ。
まもなく右に「神明社」の標識が。
入ってゆくと、公園を兼ねた神社の境内が、薄暗く広がっている。
◇神明社(薬円台1-12)
真中に本殿。
伊勢神宮系列の神社らしく「伊勢神宮参拝記念碑」が何基かある。
「三仙元宮」碑や「小御嶽山大権現/大天狗/小天狗」は富士三信仰に関わる石碑と資料にはある。
三仙元宮碑
小御嶽山大権現/大天狗/小天狗
小祠が見当たらないと思っていたら、覆屋の中におわした。
疱瘡神の文字も見える。
取手市には、疱瘡神の像塔があるが、他の土地では、文字搭ばかりで、像塔はない(ようだ)。
この辺り、歴史ある寺社が少ない。
それもそのはず、ここ薬円台の隣は習志野で、ここら一帯は野生馬が駆け回る牧だった。
開墾して新田と名の付く集落ができたのは、近世になってからのこと。
だから、延喜式神社があると知って、行って見る気になった。
◇二宮神社(三山5-20-1)
下総国の一宮は、香取神宮。
ここは、その二宮で二宮神社。
格式高い神社にふさわしい佇まいで、なんと近隣23か村の総鎮守だとか。
7年ごとの祭りには、神輿が一里以上もある幕張海岸まで浜降りする、古式ゆかしい神事が行われるという。
千葉日報 2015-10-01より
ポトン、ポトンと音がする。
何だろうと注視していたら、イチョウの大木から銀杏が落ちる音だった。
運悪く頭に落ちたら大変、25mもの上からの落下で痛いのは無論だが、あの臭いが髪について離れない。
東隣には、神宮寺があって、まさに神仏混合時代そのまま。
神社と寺の間を通る道に道標が立っている。
「二宮大明神 是より七町」とあるから、どこか別の場所から移転してきたものらしい。
句碑を兼ねていて「耳なくて きかるるものよ 閑古鳥 遠近庵 三市」とある。
遠近庵(おちこちあん)三市は、ネットで調べてみたら、地元の俳人。
「耳なくて・・・」は、成人になってから聴力を失った自らのこと指すようだ。
「耳が不自由でも、閑古鳥が鳴いているのは、聞こえるよ」。
これだけだと大した句に思えないが、何か深い意味があるのだろうか。
二宮神社から来た道を戻って、成田街道の「二宮神社入口」へ。
突当りに奥の不動堂に、たった1基ある石造物は、「聖徳太子」供養塔。
施主は「太子講」。
太子講は、聖徳太子を職能の髪として崇める大工、左官、建具などの職人集団。
定期的に集まっては、太子の掛け軸をかけ、呑みながら労賃の協定を結んだりする。
この碑の背面には51名の名前がある。
彼らは、日露戦争の旅順港攻撃戦となった二〇三高地を六分の一に模した永久堡塁を、訓練のために習志野に建築した際、その工事にたずさわった職人だという。
不動堂から200m東に、船橋市郷土資料館がある。
工事中で閉館していたが、敷地内の明治天皇駐蹕(ひつ)碑は見られた。
明治天皇が、明治6年(1873)、近衛兵の演習を統監された記念碑。
習志野という地名は、この時、勅命によって決められたが、その間の事情は碑文に書いてある。
碑文
(表) 明治天皇駐蹕之処 大正六年十月 元陸軍大将公爵山縣有朋禁書
(背) 習志野原は千葉県に在り。下総国千葉郡の曠野渺漠として小金原に連なり、本より特称なし。明治六年四月二十九日、天王近衛兵を率いて親臨し、この地に露営す。櫛󠄁風沐雨、統監演武、地形尤も練習に適すと認む。五月十三日、名を習志野之原と賜う。永く陸軍操練場習志野之原の名称を定む。茲に於いて今謹んで其の縁由を記す。
郷土資料館の前は、陸上自衛隊習志野駐屯地。
ここから道路の右側はフエンスが延々と2キロ、船橋市と八千代市の市境まで続く。
左側にも寺社は勿論、馬頭観音、庚申塔、道標などの石造物は皆無。
これほど長い石造物の不毛地帯も珍しい。
市境は、新木戸交差点前。
いよいよ、というべきか、やっと、というべきか、ここから八千代市に入る。
次回更新日は、1月1日です。
≪参考図書とwebサイト≫
〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年
〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年
〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年
▽「成田街道道中記」
http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html
▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html
▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html