石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の句碑-20-高畠華宵碑と東大医学部戦没同窓生の碑

2019-05-19 08:31:40 | 石碑

東大本郷キャンパスには、9つの門があるが、その一つ、弥生門の前にあるのが、弥生美術館。

◇高畠華宵の碑

高畠華宵、竹久夢二、中原淳一など、大正、昭和初期の画家の作品を蒐集、展示している。

弥生美術館の設立者、鹿野琢見氏は、少年時代、高畠華宵の絵『さらば故郷!』に励まされ、上京し、刻苦勉励して弁護士となった。

華宵への報恩の気持ちは、華宵作品の精力的な収集となり、同時に、晩年、不遇であった華宵を引き取り、この地で、亡くなるまで面倒をみた。

美術館前の塀にはめ込まれた石碑の冒頭の4行は、自分の絵に影響を受けたとする鹿野氏に対する高畠華宵の心の返答である。

あの絵が、可憐な少年少女の日のあなたの心によき影響を与えたということは、私として何よりもうれしいことです。華宵

そして、その左に、高幡華宵の略歴が刻されている。

画家 高畠華宵の碑
優美華麗あるいは凛々しく可憐なさし絵で大正昭和にかけ青春期にある人々との共感を呼び、その画風一世を風靡した不出世の画家高畠華宵の画業を讃え、その人となりを追慕しここにこの碑を建てた


略歴 華宵 名は幸吉 明治21年4月6日愛媛県宇和島に生る 明治末期から大正昭和にわたり さし絵 口絵 広告絵 郵便絵等麗筆を揮う 昭和41年7月31日 この地に没す 享年78歳  華宵会 

美術館の塀の右側には、棺桶を擔男性群像のレリーフがある。

上部に「東京大学医学部戦没同窓生の碑」とあり、群像の両脇に戦没者の氏名がズラッと刻されている。

レリーフの横に、建立趣旨を刻んだプレートがある。

  
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出した。
 彼らの多くはアリューシャン列島アッツ島からニューギニア、ガダルカナル島、中国、東南アジア、沖縄に拡がった戦火の中で、また広島・長崎で医療従事中に原子爆弾の劫火に斃れた。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実を悲しみ、これを後世に伝えるべく、基金を組織して戦没者と戦没地の調査を行い、同窓会鉄門倶楽部に医学部構内への追悼碑建設を提案した。
 同倶楽部はこの事業の実行を決議して医学部教授会の承認を求めたが、未だその採決に至らず、いまや戦没世代同窓生は碑の完成を見ることなく世を去ろうとしている。
 この「東京大学医学部戦没同窓生の碑」は、戦後最初の総長南原繁先生の戦没学徒哀悼の志を承け、この地にお住まいの鹿野家の皆様から温かいお心をいただいて建立するに至ったのであって、避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた若者たちのいたましくも哀しい事実を歴史に刻む碑である。
 私たちは戦没同窓生への思いを戦いに斃れた友を担って母校に帰り来る学友の群像に託し、近い将来同窓会鉄門倶楽部の決議が実行され、この碑が医学部構内に移築されることを期している。
 新世紀最初の東京大学五月祭の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と花を捧げて深い哀悼を世に伝える。
 
 平成13年5月27日
 東京大学医学部戦没同窓生追悼基金
 
医学部卒業生の戦没者慰霊碑が、学内ではなく、なぜ、こんな場所にあるのだろうか。
 
聞くところによれば、、この碑を医学部構内に建てることに反対の意見が教授会を占めたのだという。
碑文の最後に「この碑が医学部構内に移築されることを期している」とあるのは、そうした事情を含んだものか。
いずれにせよ、戦没者慰霊碑という誰もが賛同するものと思われる提案に反対する意見とは、どういうものだったのか、知りたいものです。
 

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