臼井台という町名で判るように、臼井宿は台地の上にある。
私は電動自転車で台地へ上ろうとしたが、途中で断念、押して上がった。
なぜ、そんな台地に宿場はあるかというと、台地の突端は天然の要塞で、城を構えるには最適地だったから。
臼井城から印旛沼を望む
城が台地にあれば、城下町も必然的に台地に展開する、というわけ。
坂を上がり切った地点の右側に、植木に隠れて、庚申塔がある。
◇手繰坂上の庚申塔(佐倉市臼井台長谷津1141)
道路にではなく、人目を避けるようにあるのはなぜか、不思議に思ったが、元はここには地蔵堂があったんだそうだ。
手繰坂を上りそのまま進む。
両側は民家だが、農家ではなさそうだ。
大体、広い農地が台地にはない。
農家ではないとすると、何を生業としているのだろうか。
かつては、武家だったことは、間違いなさそうだが。
道が突き当たる丁字路に道標がある。
◇大名宿丁字路の道標(臼井台150付近)
正面に「右成田ミチ」、右側面は「左江戸みち」、左側面「西さくば道」、裏面に「文化三丙寅(1806)正月二十八日 新吉原仲之町 伊勢屋半重涼宿大田屋」と刻されている。
元は「さくら道」だったものが、成田詣が盛んになるとともに「成田道」へと呼ばれるようになる。
その変化は、丁度、この道標が建てられた文化、文政の頃だったと言われています。
成田道は、ここを右へ曲がるのだが、私は、反対の左方向へ歩を進める。
坂を下らず、右方向へ。
寺の山門への分岐点に道祖神が、しっかとおわす。
◇真言宗豊山派・大澤山実蔵院建徳寺(臼井台217)
山門前の参道の右側に石仏が10基ならんでいる。
ほとんどが如意輪観音。
十九夜塔ではなくて、墓標のようだが、はっきりしない。
船橋市と八千代市には、市内の石造物の悉皆調査報告書があるので、随分お世話になった。
しかし、佐倉市には、そうした刊行物は、いまのところ、ない。
分からないものは、分からないまま進まざるをえない。
明らかに十九夜塔と思われるものが、1基、参道左にいらっしゃる。
明治36年(1903)、当寺の山口住職は、農家の指定に中等教育を授けるべく、私立明倫中学校を、寺内に創立した。
「明倫中学跡」碑
「明倫中学校歌」碑がある。
一番の歌詞だけ、転写しておく。
平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児
胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ
春はうそぶく花の下 夏はオールの音楽し
秋の教義は熱血躍り 冬は琢磨の窓に生く
時は流れて人去れど 純美崇高極みなき
不滅の抱負は永劫無窮 行く手は遠く廣くとも
かくてぞ我等は奮闘努力 かくてぞ織りなす心の錦
実蔵寺を左に樹々に覆われてうす暗い坂を下りると集落がある。
道の三叉路に子安観音がおわす。
◇路傍の子安観音道標(臼井台342)
子安観音像の台石正面右に「安政四丁巳(1857)八月吉日」、正面中央にに「右ハさくら、左くすのき」とあり、左右の側面には施主名9人の名前が彫ってある。
子安観音が道標を兼ねる例は、極めて珍しいように思う。
畑にほうき草が、陽の光を浴びて、朱色に輝いている。
この低地からまた緩い坂を上ると鳥居がある。
◇星神社(臼井田1080)
星神社の前身は、妙見社。
千葉家の臼井六郎常康が永久年間(1113ー1118)に臼井城に居を構えた時、守護神として建てたのが、臼井妙見社。
妙見は、北極星を神格化したもので、千葉氏一族の神。
千葉市中央区の千葉神社の祭神も、当然、妙見です。
ここの臼井妙見社は、明治の神仏分離令で、星神社と改名された。
小堂があって、子安さまが祀られている。
野ざらしではないのは、珍しくはないが、数はごく少ない。
出羽三山供養塔と秩父善光寺巡礼搭が混在している。
女人禁制の出羽三山には男性だけの集団が、一方、秩父札所巡りは女性の集団が組まれるのが通例でした。
それなのに、ここの出羽三山供養塔には、女性の名前も書かれている。
昭和49年(1974)と昭和51年(1976)の2搭がそうであることから、この頃から、壮年から老年になる男性の通過儀礼としての三山参りが変質してきたことになる。
それでも現地、出羽三山の女人禁制は厳格に守られているようで、宿坊に泊まっても山への参拝は女性はしないのだそうです。
星神社から臼井城址へ向かう。
途中、星神社からの道が突き当たる丁字路の左に石段があり、墓がある。
◇太田図書の墓(臼井田城内)
太田図書の墓と刻書されている。
太田図書が何者であるか、即答できれば日本史通だろう。
もちろん、私は知らなかった。
太田道灌の弟で、文明11年(1479)、兄とともに臼井城攻略に参戦、討ち死にした。
こんな供養塔を建てるだけの人物なのか、私にはわからない。
恥をさらせば、私は「としょ」で変換していたが、「ずしょ」と読むのだそうです。
丁字路を右折、臼井城址へ。
◇臼井城址(城址公園)
城址は、今、公園になって、何もない原っぱが広がっている。
石造物は、皆無。
記念碑も顕彰碑も句碑も石段も、石造物は何もない。
気持ちいいくらい、ない。
奥に行くと切り立った丘の上に出る。
白井台地の東のはずれで、西から東へ突き出たこうした舌状台地は、城建造の最適地だった。
眼下の眺望がいいことは、敵勢把握に利した。
と、いうことは、印旛沼の眺望にも適しているということ。
「臼井八景」の一つに「城峯夕照」がある。
「名勝臼井八景」http://www.catv296.ne.jp/~hachiman/usuihakkei.htmより借用
「いく夕べ 入日を峯に送るらん 昔の遠くなれる古跡」と詠んだのは、臼井城主の子孫、臼井秀胤。
城址公園を後に中宿に向かうと間もなく、左に「古峰神社」と「道祖神社」がある。
左,古峰神社 右、道祖神社
道祖神は数多いが、こうして社を構えた道祖神社は多くない気がする。
道路を挟んで反対側、竹林の中に石段が伸びて、その両側に石造物が立っている。
◇臼井城櫓台跡の石造物群(臼井市869付近)
出羽三山供養塔が一番多い。
富士講中が造立した碑が、2基。
1基は、「富士仙元宮 三国第一 文久壬戌(1862)九月吉日」とあり、
もう1基には「富士浅間大神」とある。
十三夜塔がある。
珍しい。
3.11東北大地震で倒壊し、そのまま手つかずに放置されて、土に埋もれ、土に還りつつある石塔が多い。
こういう光景ばかり見てきて、寂しさはぬぐえない。
文化財は保存すべきであることは論を待たない。
保存には経費がかかる。
それが公金ならば、優先順位は不可欠で、地震で倒れた石造物の保存、復元が重要視されなくても仕方ない。
頭ではわかっていても、倒れた石塔が寂しい光景であることに変わりはない。
次回更新日は、1月16日です。
≪参考図書とwebサイト≫
〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年
〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年
〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年
▽「成田街道道中記」
http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html
▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html
▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます