「粉雪」が生まれるまでのレミオロメンのドキュメンタリーの再放送を見た。といっても、たまたまチャンネルを替えたらやっていて、途中からだったので全部を見た訳ではない。この曲についてメンバーの前田君があれは藤巻君の「個」が出ている曲だと語っていた。男と女がひとりづついて・・・。そして、それは「ビールとプリン」と似ていると。
あ~だからだったのかな。私は以前にもこの「ビールとプリン」という曲がレミオロメンの中でも特に好きだと書いたけれど、そんな感覚が「粉雪」においても感じられたのは。
でも「粉雪」の方はもっと内面の部分で、どちらかというと精神世界のようだけど、「ビールとプリン」は実に現実的でそこにある感覚で聴ける。これが藤巻君の奥の深さなのかな。
私は以前、毎年のように山梨県に旅行にでかけていた。言葉で表現するのは難しいけど、心がとてもやすらぐところなんだ。リゾート地もあるけど、そういうところではなくて、自然の佇まいの素敵な場所がいろいろある。昔からぶどうの産地のイメージがあるからか、そして木々の緑のせいか私の山梨県のイメージはマスカット色。
そんなマスカット色と重なるのがレミオロメンのイメージ。
私にとって、彼らはまさに山梨系音楽なんだ。東京に出ていてもいつも山梨の空気をもっていて、彼らの音楽を聴く人たちに自然の営みや自然の声や土の香りを思い出させる・・・そんな気がする。
冬であっても粉雪は一瞬にして手のひらで溶けてしまって忘れられてしまう。でも、ふとある時、そんな粉雪を見て、はっとすることが。ほんの少しの出会いであったので忘れてしまっていたあの時、あの人、あの場所・・・それは粉雪のように知らぬ間に自分の心の中で溶けてしまっていたけど、それをふと思い出したなら今度はあえて自分の内面に向って掘り下げて、その忘れていたものを再びよみがえらせようとする・・・
藤巻君は「粉雪」を無意識を意識にかえるということで描きたかったみたいだね。って私の表現はあまり上手ではないので伝わるかどうかわからないけど・・・
でも、そんな事ってあるよね。ほんとにすっかり忘れていたのにある時、ある瞬間、たとえばバス停でバスを待っていると、ふとそよ風が吹いてきて、その瞬間に懐かしい誰かの笑顔が浮かんだり・・・とか。
「あの人は今どこで何をしているんだろう」
あるいはずっとわからなかった答えが
「そうだったんだ。私はなんで気付かなかったんだろう、あの時。ばかだな。ほんとにばかだな。」
とわかったり。
春になって、桜が満開になると、思い出すことが増えて、胸の奥がなんだか痛くなる。
あ~だからだったのかな。私は以前にもこの「ビールとプリン」という曲がレミオロメンの中でも特に好きだと書いたけれど、そんな感覚が「粉雪」においても感じられたのは。
でも「粉雪」の方はもっと内面の部分で、どちらかというと精神世界のようだけど、「ビールとプリン」は実に現実的でそこにある感覚で聴ける。これが藤巻君の奥の深さなのかな。
私は以前、毎年のように山梨県に旅行にでかけていた。言葉で表現するのは難しいけど、心がとてもやすらぐところなんだ。リゾート地もあるけど、そういうところではなくて、自然の佇まいの素敵な場所がいろいろある。昔からぶどうの産地のイメージがあるからか、そして木々の緑のせいか私の山梨県のイメージはマスカット色。
そんなマスカット色と重なるのがレミオロメンのイメージ。
私にとって、彼らはまさに山梨系音楽なんだ。東京に出ていてもいつも山梨の空気をもっていて、彼らの音楽を聴く人たちに自然の営みや自然の声や土の香りを思い出させる・・・そんな気がする。
冬であっても粉雪は一瞬にして手のひらで溶けてしまって忘れられてしまう。でも、ふとある時、そんな粉雪を見て、はっとすることが。ほんの少しの出会いであったので忘れてしまっていたあの時、あの人、あの場所・・・それは粉雪のように知らぬ間に自分の心の中で溶けてしまっていたけど、それをふと思い出したなら今度はあえて自分の内面に向って掘り下げて、その忘れていたものを再びよみがえらせようとする・・・
藤巻君は「粉雪」を無意識を意識にかえるということで描きたかったみたいだね。って私の表現はあまり上手ではないので伝わるかどうかわからないけど・・・
でも、そんな事ってあるよね。ほんとにすっかり忘れていたのにある時、ある瞬間、たとえばバス停でバスを待っていると、ふとそよ風が吹いてきて、その瞬間に懐かしい誰かの笑顔が浮かんだり・・・とか。
「あの人は今どこで何をしているんだろう」
あるいはずっとわからなかった答えが
「そうだったんだ。私はなんで気付かなかったんだろう、あの時。ばかだな。ほんとにばかだな。」
とわかったり。
春になって、桜が満開になると、思い出すことが増えて、胸の奥がなんだか痛くなる。