福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

衆生の受ける功徳にはなぜ多少があるのか

2024-05-08 | 諸経

「如来の福田は、一味平等であるのに、どういうわけで、衆生の受ける布施の果報は異なっているのであろうか。衆生にはなぜ功徳の多少があるのか。」
「おなじ水であっても、器によって形がちがうように、諸仏の福田も、専ら功徳を受け取る衆生の側の差異により差異が生じる。しかしそれらの果報の差も実際には『空』である。」

以下、華厳経・明難品・第五段落「福田甚深」の項の和訳と原文。

文殊菩薩、目首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、如来の福田は、一味平等であるのに、どういうわけで、衆生の受ける布施の果報は異なっているのであろうか。衆生にはなぜ、美醜、貴賤、機根の鈍鋭、貧富、奇特の有無、眷属の差、自由不自由、功徳の多少、智慧の多少があるのか。如来は平等であって、怨親のわけへだてのあろうはずはないのに。」
 そのとき、目首菩薩は、つぎのように答える。
「たとえば、大地は一つで、怨親はないけれども、種々の植物の芽を生ずるように、仏の福田もまた、それとおなじである。
 また、おなじ水であっても、器によって形がちがうように、諸仏の福田も、衆生によって異なってくる。
魔術師がよく諸人を喜ばせるように仏の福田もまた、それとおなじである。
 また、弁才天が諸人をよろこばせるように、諸仏の福田もまた、衆生を喜ばせる。
 明鏡が、種々の影像をうつすように、諸仏の福田も、衆生の故に相違がある。
大薬王があらゆる毒を消すように、諸仏の福田もよく煩悩の患ひを除く。
 陽がのぼるとき、すべての闇が消えるように、諸仏の福田もあまねく十方界を照らす。
清らかな満月が普く四天下を照らすように、諸仏の福田も平等であり偏頗なし。
例えば暴風が一切の地を震動するが如く諸仏の福田もよく三界の「有」とされる現象が実は「空」であるとわからせる。
たとえば劫火がおこれば天地がすべて焼かれるように、諸仏の福田もよくあらゆる「有」とされる現象を焼きそれらは「空」であると覚らせるのである。」


(原文・華厳経明難品・第五段落・福田甚深の項。)
爾時、文殊師利は目首菩薩に問て言く、「佛子よ、如來の福田は等一にして無異なるを云何が布施の果報不同にして種種の色、種種の性、種種の家、種種の根、種種の財、種種の奇特、種種の眷屬、種種の自在、種種の功徳、種種の慧有るや。如來は平等にして怨親あること無きに。」

原文・華厳経明難品第五段落・福田甚深の項
爾時、目首菩薩は偈を以て答て曰く
「 譬ば大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
彼において怨親無きが如く 佛の福田も亦た然り。
譬ば水の一味なれども 器によるがゆえに不同なるが如く諸佛の福田も一なるも 衆生の故に異るあり。
譬ば大幻師の 能く衆をして歡喜せしむる如く、
諸佛の聖福田も 願に随ひて欣悦せしむ。
譬ば辯才王の 能く衆をして歡喜せしむるも
諸佛の聖福田も衆生をして悦樂せしむ。
譬ば明淨の鏡の 對するに随て衆像を現ずるがごとく、諸佛の聖福田も 衆生の故に異るあり。
譬ば大藥王の一切の毒を消滅するが如く
諸佛の聖福田も 能く煩惱の患を滅す。
譬ば日出の時は 能く一切の闇を除くが如く
諸佛の聖福田も 普く十方界を照らす。
譬ば淨滿月の 普く四天下を照らす如く
諸佛の聖福田も 平等にして偏黨無し。
譬ば毘嵐風の一切地を震動するが如く
諸佛の聖福田も 能く三界の有を動ず。
譬ば火劫起れば 天地焼かざる靡きが如く
諸佛の聖福田も 能く一切の有を焼く。」

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