福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

地蔵菩薩三国霊験記 1/14巻の2/9

2024-06-13 | 諸経

地蔵菩薩三国霊験記 1/14巻の2/9

 

二、奥州平孝義の即従、出世地蔵の像を掘出し奉る事。(今昔物語巻十七第五話 依夢告従泥中掘出地蔵語 第五にもあり)

陸奥國前司平の孝義が郎従、字は藤次と云者あり、主人國守に任ぜらるる時に件の藤次を以て倹田に入部せしめけり。即ち田の頭に徘徊しけるが泥中に御長三尺(約91㎝)計(ばかり)の地蔵菩薩の像半身は泥を出てあらはれ給ふ。藤次驚き馬より下りて抱出し奉らんとするに重きこと盤石の如し。勇猛を出せども弥よあらはれ玉はず。合力を頼んでも猶以て叶はず。藤次眼を閉じ、合掌して至心に敬白すらく、敢て出玉はざるにはあらじ、業力重きが致す所なるべし。若し因縁在ば今夜必ず示現を下し玉へとて泣く泣く立ち去りにき。夜半に小僧出来り玉ひて曰く、我已に年久く彼の泥中にあり。本は此の田、伽藍地なりし。荒廃てて如是に田となるなり。数体の佛像彼の泥中に埋れ玉へり。若し汝志して彼の佛像を悉く堀(ママ)出し来たらば我随って汝が所へ行き歓喜の眉を開かん。諸佛も亦然らんと示し給ふと思へば夢覚ぬ。藤次天を仰ぎ信心を至し人夫を促し鍬鋤をあつめて件の田をほりけるほどに忽ち七十二尊を掘りだし奉りき。藤次悦んで草堂を彼の所に建立して佛像を安置し奉りける。其の中に抜き出して彼の示現の像を主君平の孝義上洛の時持し奉りて六波羅蜜寺の砌に送り壽久仙坊其の本縁を聞たてまつり随喜感悦して新に彩色修理して仙の坊に安じ奉りけり。凢そ百千人歩みを望みて信仰し奉りければ各々願に應じて得益あり。今の六波羅蜜寺の地蔵は是あんり。されば彼の藤次一心の誠より万善の路を開く。主人も亦強て利欲を事とせば苟も斯に至らじ。唐に呉興と云處に僧覆(ふ)と云法師あり。本國饑荒して五穀も渇乏せり。食を求めて山陽と云處に至り晝は村里に入りて乞食し、夜は寺舎の傍に臥す。山陽の諸の寺の銅像を里人を倡(いざなふ)て偸奪して家に皈て錢に鋳る。其の銅像の數既に数百に及ぶ。忽ちに此の事露見して同類せし邑里の人とも悉く捕へられて都に送る船に載せて遣すに彼の僧俄かに身面赤くして曰、人あり、火を以て我を焼く、熱くして忍びがたしと。悶絶して三日叫喚しけるが遍身ことごとく裂てぞ死しけると、冥祥記に見へたり(冥祥記「沈僧覆。宋吳興沈僧覆,大明末,本土饑荒,逐食至山陽。晝入村野乞食,夜還寄寓寺舍左右。時山陽諸寺小形銅像甚眾,僧覆與其鄉里數人,積漸竊取,遂囊篋數四悉滿焉。因將還家,共鑄為錢。事既發覺,執送出都,入船便云:見人以火燒之。晝夜叫呼,自稱:「楚毒不可堪忍」未及刑坐而死;舉體皆炘裂,狀如火燒。吳郡朱亨親識僧覆,具見其事。(《法苑珠林》卷七九)」)。志あらん輩は如是の事跡を見て怖畏の念を成し藤次が迹を慕玉ふべし。

 

 

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