賽の河原地蔵和讃
「帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは 諸事の哀れをとどめたり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ 娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さ . . . 本文を読む
福聚講・護国寺定例参拝会第5回会合が、5月19日(土)午後2時から、同寺本堂で行われました。この日は、雲ひとつない青空が広がり、境内の木々の若緑の若葉が、さわやかにそよいでいました。前日の、晴れ間があったり、時には、雨模様で、しぐれたり、気温も、寒暖定まらない日でしたが、この日は、打って変った、参拝会に、ふさわしい天候でした。
巡拝は、いつもの通り、高原耕昇耕講元様が、内陣で鐘を叩きながら、導師 . . . 本文を読む
第16回・福聚講関東36不動霊場巡り(2012-5-13晴れ)
<第30番札所・王山不動院總願寺(不動ヶ岡不動尊)>埼玉県加須市不動岡2-9-18
<第31番札所・光岩山釈迦院彌勒密寺(岩槻大師・尊喜多向き不動尊)>埼玉県さいたま市岩槻区本町2-7-35
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田を耕すバーラドブァージャ
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わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた . . . 本文を読む
「南無」はよく仏教書では「帰依する」という意味だと書かれています。ウィキペヂアでも「南無(ナム)とは、サンスクリット語のナマス(namas)およびナモー(namo)の音写。意訳すると、帰命、帰依という意味、つまり命を捧げる、それほど大事に敬うという意味がある。」とされます。
しかし、先日、初級のサンスクリット講座に学んでいるとき資料で「南無ーnamo」の語根は「nam-」で、この語根の意味は「身 . . . 本文を読む
法句経
2012-05-23 | 諸経
第十七 忿怒の部
二二一 忿を棄てよ、慢を離れよ、一切の結を越えよ、精神と物質とに著せざる無所有の人に諸苦隨ふことなし。(結―人を結縛するもの即ち煩惱。)
二二二 若し人己に發せる忿を制すること奔車を(止むるが)如くなれば、彼を我は御者と言ふ、爾らざる人は(唯だ)(たづな)を取る(のみ)。
二二三 不忿を以て忿に勝て、善を以て不善に勝て、施を以て慳に勝て、實語を以て妄語者に(勝て)。
二二四 . . . 本文を読む
第十五 安樂の部
一九七 怨の中に處て慍らず、極めて樂しく生を過さん、怨ある人の中に處て怨なく住せん。
一九八 痛の中に處て痛まず、極めて樂しく生を過さん、痛める人の中に處て痛なく住せん。
一九九 貪の中に處て貪らず、極めて樂しく生を過さん、貪る人の中に處て貪らずして住せん。
二〇〇 少物をも所有せず、極めて樂しく生を過さん、喜を以て食とせん、極光淨天の如く。(極光淨天―天國に居る一類の神。)
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第十一 老耄の部
一四六 何を笑ひ何ぞ喜ばん、(世は)常に熾然たり、汝等黒闇に擁蔽さる、奚ぞ燈明を求めざる。(熾然―世の一切萬物悉く無常にして滅壞するを火の熾んに燃ゆるに譬へたるなり。)
一四七 見よ、雜色の影像は積集せる瘡痍の體なり、痛み、欲望多し、此に堅固常住あることなし。(影像―身體の謂にして其堅實の自體なきを譬ふ。)
一四八 此の容色は衰ふ、病の巣なり、敗亡に歸す、臭穢の積集は壞 . . . 本文を読む
日本民芸館ホームページhttp://www.mingeikan.or.jp/にあるお孫さんの石井頼子氏 (棟方板画美術館学芸員)が2007年に語った「東北経鬼門譜」の解説です。日本民芸館では6月10日まで棟方志功展が開催中です。
「・・棟方の作品には、故郷青森(津軽)に題材をとったものが多く見られます。
『東北経鬼門譜』はその代表作で、棟方は「自分の生まれた東北は日本の鬼門にあたる。
豊 . . . 本文を読む
・・・重重帝網名即身者。是則擧譬喩以明諸尊
刹塵三密圓融無礙。帝網とは因陀羅珠網なり。
謂く身とは我身・佛身・衆生身、是を身と名ずく。
又四種身あり。言く、自性・受用・變化・等流、是を身と名ずく。
又た三種有り、字・印・形、是れなり。
是のごときの等身縱横重重なり。
鏡中の影像燈光渉入する如し。
彼身即ち是れ此の身。此の身即ち是れ彼の身。佛身即是衆生身。衆生身即是佛身。
不同にして同、不異にして異 . . . 本文を読む