今日はマルティン・ブーバー死去の日です。マルティン・ブーバーは 1965年6月13日に87歳で死去しています。オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者。50数年前高校生時代に早熟の同級生がブーバーの『我となんじ』について論じていましたが当時はよくわかりませんでした。しかしいまは親近感を覚えます。ウキペヂアには「ブーバーの思想は「対話の哲学」と位置づけられる。・・ブーバーによれば科学的、実証的な経験や知 . . . 本文を読む
業の出方(時期と形態)
・正法眼法随聞記に「・・・冥機、冥應、顯機、顯應等の四句(注1)あることを思ふべし。亦現生後報等の三時業(注2)のこともあり。是らの道理能々學すべきなり。」とあります。
又「正法眼蔵・三時業」にも「・・今の世に因果を知らず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。・・・佛祖の道を修習するにはその最初よりこの三時の . . . 本文を読む
今日は弘安四年1281六月十三日は、仁和寺法助が孔雀経法、小栗栖法琳院寛伊が大元帥法とそれぞれ蒙古退散の修法を凝らした日。「読史愚抄」に「弘安四年六月十三日、孔雀経法を大聖院において阿闍梨仁和寺准后法助が、大元帥法は法琳院において阿闍梨権大僧都寛伊が大元帥法を修せらる」 . . . 本文を読む
[神明鏡]によれば
「弘安四年、六月十三日 。蒙古より襲来ぬ。文永十一年よりの事なれは、九州の兵は博多に馳集る。山陽山陰の勢は、文字赤間を堅、東山東海の兵は帝都へ馳上。北陸道の兵も王城を守る。時に大元七万余の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舳艫を雙もやいを入、歩板を敷渡、陣々に油幕を引て、干戈を立雙たれは、五島より東博多浦に至まて、海上の四圍三百余里、俄に陸地に成て、蜃気爰乾圍波城 . . . 本文を読む
・今日は大師(32)が青龍寺に於いて學法灌頂壇に入壇された日です。眞言付法纂要抄( 成尊)に「大唐貞元二十一年(延暦二十四年に配す)・・六月十三日。長安城青龍寺東塔院灌頂道場において、學法灌頂壇に入る。是日、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで即ち五部灌頂に沐し、三密加持を受く。此より以後、胎藏之梵字儀軌を受け、諸尊之瑜伽觀智を學す。」『太上天皇灌頂文』に「去んじ大唐の貞元二十二年、日本の延暦二十四年805の . . . 本文を読む
今日は北条時頼が叡尊を尋ねて聞法した日です。
関東往還記より。
「(弘長二年1262六月)
十三日、黄昏、(最明寺禅門、叡尊の居する釈迦寺に来臨して言うには)『忝くも不肖の身で征夷大将軍の権をとり、・・名利の為には命を落とすほどの禍に遭いながら仏法の為にはためには未だ捨身の心を発しなかったのは愚痴の至りである。よって万事を抛って参詣した』と。」 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 1/14巻の2/9
二、奥州平孝義の即従、出世地蔵の像を掘出し奉る事。(今昔物語巻十七第五話 依夢告従泥中掘出地蔵語 第五にもあり)
陸奥國前司平の孝義が郎従、字は藤次と云者あり、主人國守に任ぜらるる時に件の藤次を以て倹田に入部せしめけり。即ち田の頭に徘徊しけるが泥中に御長三尺(約91㎝)計(ばかり)の地蔵菩薩の像半身は泥を出てあらはれ給ふ。藤次驚き馬より下 . . . 本文を読む