福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は円空入定の日です。

2024-07-15 | 法話

今日は円空入定の日です。
以下ウキぺデア・近世畸人伝・岐阜県ホームページ等に依ります。円空は元禄8年7月15日(1695年8月24日)64歳で入定されています。岐阜県関市弥勒寺の墓碑銘に拠れば、円空は弥勒寺の南に位置するこの長良川河畔に穴を掘り、多くの里人に見守られ念仏を唱えながら自ら土に埋もれ入定を果たしたとでているようです。今でも長良川畔弥勒寺跡、藤棚の下に円空上人塚と円空顕彰碑が立っていて岐阜県史跡に指定されています。

「円空連合」のホームページには、
「美濃国(現在の岐阜県)に生まれた円空は、早くから小僧として仏門に入りましたが、長良川の洪水で母を失ったのを契機に寺院を出て窟ごもりや山岳修行するようになりました。
 そして、美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深めました。そして民衆を苦しみから救うため、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを刻み歩いたようです。その足跡は美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北・北海道にまで及びます。
 やがて、一所不住ともいわれた円空は、自ら再興した岐阜県関市の弥勒寺に落ち着くようになり、そこを拠点に仏像製作の旅を続けました。その頃には円空にも弟子が付くようになっていました。
 誓願の12万体の仏像を彫り還暦を迎えた円空は、母の命を奪った長良川を入定の地と決め、弥勒寺境内の同川の畔で即身仏として素懐を遂げました。」とあります。
近世畸人伝には「僧円空『僧円空は美濃の国竹ヶ鼻といふ所の人也。おさなきより出家し、某寺にありしが廿三にて遁出て富士山に籠りまた加賀白山に籠る。或夜、白山権現の示現ありて美濃の国弥勒寺の再建の事を仰せ給ふによりて至りしが、いくほどもなく成就しければそこにも止まらず飛騨の袈裟山千光寺に遊ぶ。その袈裟にありける僧俊乗といへるは世に無我の人にて交はり善ければなり。円空持てる物は鉈一丁のみ、常にこれをもて仏像を刻むを所作とす。袈裟山にも立ちながらの木をもて作れる二王あり。いま是をみるに佛作の如しとかや。又人を見、家を見ては或は久しくたもつべし、或はいくほどもなく衰ふべしといへるの一つも違ふことなし。或は此の国高山の府、金森候の居城をさして此の所に城気なし、と云るに一両年の間に候、出羽へ國替ありて城は外郭ばかりとなりぬ。また大丹生といへる池は池の主、人を取るとて常に一人は行はず、二人行けば故なしといへり。さるにある時円空見て「此の水、この比にあせてあやしきことあり。国中おおひに災いに罹るべし」いひしかば、もとよりその不思議を知る故に人々驚きいかにもして此の難を救はれと願ひしかばやがて彼の鉈にて千体の仏像を不日に作りて池に沈む。其の後何の故もなく、はた是よりは一人行く人も取るること止みけんとなん。この国より東に遊び、蝦夷の地に渡り、仏の道を知らぬ所にて法を説けて化度せられければその地の人は今に至りて「今釈迦」と名けて余光をたふとむと聞けり。後美濃の池尻に帰りて終わりをとれり。美濃飛騨の間にて窟上人と云ひならへるは窟に住めるゆえかも』

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