「羅漢さんは入涅槃せずに我等遺法の弟子を護るために矢張り形を隠して北瞿慮洲、須弥山などにござるが我らが誠をいたして供養すると来てござる」(十善業道経講義・釈雲照)
たしかに多くの寺の縁側に坐しておられる賓頭盧様は十六羅漢の一番弟子で、我等が患っているところと同じところを撫でると病気を治していただけます。 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶二年四月卅日乙未条(878)に「卅日乙未 先是 災旱殊に甚し 農夫耒を棄て 朝廷憂を為す 是日膏雨快澍 溝渠皆な溢る 天下以って 仁王経之験力と為す 故に是を記す」(天皇は陽成天皇。前年以来の干魃により飢饉が起きていました。) . . . 本文を読む
観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・22/29
廿二京六角堂頂法寺如意輪観音の縁起。
六角堂の本尊一尺二寸の如意輪観音は聖徳太子七生の守り本尊なり。曽って淡州の濵に一の朽ちたる筐あり波に漂ひ来る。聖徳太子偶々海濵に出て此の筐を見玉ひ怪しみて開御覧ずるに如意輪観音の尊像なり。悦んで身を離ず持し玉ふ。爾後四天王寺御建立の為に材木を求め今の六角堂の地に来たりて泉に沐浴せんとおぼしめして、しばらく尊像を . . . 本文を読む
百練抄・正元元年(1259)四月三十日条に「三十日 仁王経法ヲ冷泉殿ニ修シテ 疫疾ヲ禳フ」とあります。此のころは、[五代帝王物語]に 「春比より世のなかに疫病おびただしくはやりて、下臈どもはやまぬ家なし。川原などは路もなきほどに死骸みちて、浅ましき事にて侍りき。崇神天皇の御代昔の例にも劣らずやありけん。飢饉もけしからぬ事にて、諸国七道の民おほく死亡せしかば、三月 二十六日改元ありて正元と改る。」と . . . 本文を読む
「・・長安城の中に於いて写し得るところの経論疏等凡て三百余軸、及び大悲胎蔵・金剛界等の大曼荼羅の尊容、力を竭くし財を涸くして趁め遂って図画せり、しかれども人は劣に教えは広うして未だ一ごうをも抜かず(九牛の一毛にも及ばず)、衣鉢竭き人を雇うこと能はず、食寝を忘れて書写に労す、日車返り難うして忽ちに発期迫れり、心の憂い誰に向かってか紛を解かん。空海偶々崑嶽に登って未だ懐に満ことを得ず、天を仰いで屠裂( . . . 本文を読む
今日保元元年1156、4月29日は清盛が高野山根本大塔の再建を果たし、座主寛遍が導師となり開眼供養した日です。この後、7月には保元の乱が勃発しますが、清盛は戦功により播磨守となっています。
しかし清盛はこうして高野山に寄進したり、厳島神社を造営し平家納経を納めても子孫はあっという間に滅亡してしまいました。瞬間的には清盛自身は栄達を極めてお陰があった様に見えますがそれも一瞬の夢でした。なにか割り切 . . . 本文を読む
大同二年807、4月29日は大師が勅命により九州・観世音寺に留まられた日です。高野大師傳には「大同二年、四月二十九日。大貮従四位下 藤原藤嗣朝臣、牒を観世音寺三綱に送府す云々。入唐廻来学問空海師、件の僧、笈を負って遠藩し大道を耽嗜し空しく往いて満ちて帰る。優学称すべし。今帰朝に及ぶ、暫く彼の寺に住す。宜しく入京の日に至るまで准借すること件のごとく住み供養せられよ。」 . . . 本文を読む
皇統の存続を700年以上前に予見しておられた天皇の御遺言がありました。国宝後宇多法皇宸翰御遺告(大覚寺蔵) です。 後宇多法皇は英邁で知られた法皇ですが、この御遺告には恐ろしいことが書いてありました。後宇多法皇宸翰御遺告第二条に「・・血脈を継ぐ法資は天祚を伝ふの君主、盛衰を同うし、興替を伴ふべし。吾が法を断絶せば皇統共に廃ぶ。吾寺(大覚寺)を興す者は皇業安泰、努々吾此の意に背き悔ゆること莫れ耳。」 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶二年(878)四月廿九日甲午条
「廿九日甲午 一百座を設けて 仁王般若経を説く。 京師御在所より始め 聖神寺に至る迄卅二、 畿内及外国六十八。 其呪願文曰 『・・・兼て因縁を察し 千の光明を放って 七災難を銷し・・(後略)」
聖神寺は、山城国愛宕郡紫野大門辺にあった寺院。弘仁十一年(820)に賀茂男牀が神託によって造立。
天皇は陽成天皇。元慶二年(878年) . . . 本文を読む
観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・21/29
廿一清水子安観音の事
清水西門の側泰産寺は田村将軍の姫君懐妊の時、平産の祈誓を清水に凝らし玉ふに依って産生安穏なり。慶喜(よろこび)に依りて建立安置し玉ふ所なりといへり。一説には聖武天皇の御建立なりと云ふ。神亀元年(724)の秋光明皇后ご懐妊にて次の歳の六月は御産の当月ならせ玉ふといへども御悩深くして何時御平産あるべきとも見へ玉はず。帝御歎き浅から . . . 本文を読む
誠太子書は花園天皇が時の皇太子量仁親王に贈られた訓戒書で一言でいうと天皇は学問をして徳を積むべしといっておられます。天皇陛下が学問をされて徳を積まれるのに国民が不学不徳のままで良いわけはありません。
「誠太子書」「余聞く、天は蒸民を生じ、之に君を樹てて司牧するは、人物を利する所以なり。
下民の暗愚なる、之を導くに仁義を以てし、凡俗の無知なる、之を御するに . . . 本文を読む
三菱財閥の祖、岩崎弥太郎の言葉です。「機会はいつ来るか分からぬ。これを捉えるには平素において捉える準備をしておかねばならぬ。その準備としては一、知識を深くすること二、見聞を広くすること三、品格を磨くことこの三つが大切である。就中、品格が高くなければ機会を取り逃がしてしまうことになる。つまり欲のために奴隷になってこれを満たそうとするとうでは折角の機会を逃してしまう。ところが多くの者は機会は作るものと . . . 本文を読む
今日は蝦夷の乱平定のため仁王般若経百座の説会を命じた日です。三代実録 / 元慶二年(878)四月廿九日甲午条「廿九日甲午 設一百座 説仁王般若経 京師始自御在所 至于聖神寺卅二 畿内及外国六十八 其呪願文曰 (中略) 兼察因縁(注1) 放千光明 銷七災難(注2) 」(四月二十九日、百座を設けて仁王般若経の講説を行った。京師では御在所からはじめて聖神寺に至るまで三十二箇所、畿内及び畿外では六十八箇所 . . . 本文を読む
今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され密教興隆を誓われました。国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第三通目) 一通以下「宸翰英華」等によります。今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され法流を継ぎ密教興隆を誓われましたがこの前には、憲淳が法皇に以下のような附法状を奉っています。憲淳は法皇が報恩院に住持した場合は、法皇を正嫡と . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第六十七代三条天皇)「寛仁元年(1017)四月二十九日出家、法名金剛浄。
道長との確執があり譲位をせまられたとされる。その際に詠んだとされる歌が小倉百人一首にあり。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院
. . . 本文を読む