明治三陸大津波は明治29年6月15日、三陸沖を震源として起こったマグニチュード8.5の巨大地震で死者行方不明者2万1,959人とされますがこの時も僧侶が慰問にいって泣いて読経できなかった様子がありました。
「仏教顕揚会の慰問師達が細浦(現南三陸町)という村で行った回向を行っていると、十三四の男女より七八十の老人皆が滂沱の涙を流し会場が嗚咽に包まれた。この村はもともと153人の住人が暮らしていたが海嘯により121人を失っている。つまり参加者は皆家族の大半を亡くした遺族でたあった。・・・経を読み始めた慰問師達の声は段々と低くなりそして遂には慰問師達もまた嗚咽し泣きじゃくるに至り読経は完全に中断し、場はただ嗚咽の声に包まれた。・・また真宗大谷派の僧侶佐藤はふと訪問した仮小屋で、波に洗われて箔の落ちた釈迦如来像と位牌、そして欠けた徳利にしおれた野菊を活けた仏壇を目にする。そしてその前に悄然と座いている中年女性の最愛の夫と母、そして全財産を失ったという泣きながらの話を聞き、自らも号泣する。どうしても読経も法話も行えずただ涙し黙礼して仮小屋を出た佐藤を女性は合掌して見送った、という」(仏教顕彰会「宗教的慰問紀行」明治29年、7月17日)
こういう時の僧侶の役割は一緒に泣くことしかないのではないかと思いました。
当方も3・11の後すこしして若林区の遺体発掘現場や名取市の遺体安置所等で読経供養しましたが声がかすれて出なかったのを思い出しました。