観自在菩薩冥應集、連體。巻5/6・10/39
十石山の観音幷良辨僧正の事
近江國勢田郡石山寺一丈六尺(4.85m)の如意輪観音は聖武天皇の願主、良辨僧正の開基なり。良辨は義淵の弟子にて聖武帝の帰依僧なりければ帝に勧めて大仏を造らしめ玉ふ。或る時帝夢み玉はく、良辨の前世は震旦國の比丘なりしが求法の為に天竺に往時に流沙に至りて大河ありければ比丘銭なくして渡る事を得ず百日あまり逗留あり。時に渡守比丘の志を感じて賃を取らずして渡す。比丘悦んで呪願すらく、汝来世に必ず王位に登らんと。其の比丘今の良辨なり。渡守は聖武天皇なりと。帝夢さめて因縁の深き事を感じて東大寺金銅十六丈の盧遮那佛を作り玉ふ(扶桑略記・聖武天皇に「世傳云,天王夢見,師僧良弁者,先生震旦修行者也。為求佛教向舍衞國,欲渡流沙。依无功錢,數月逗留。天皇者,是先身流沙之舩師也。不顧功錢,濟渡於求法僧已畢。爾時,求法沙門為報舩師恩情發願,其今日濟渡之力,來世可生國王之身。由其宿願,今為日本國王。」)像を鋳畢って金箔を塗らんとするに昔は日本に金少ふして如何ともしがたし。帝良辨僧正に語り玉はく、伝へ聞く金峰山は其の地皆黄金なりと。師金剛蔵王菩薩に祈って金を得て銅像の箔を資けんや、と。良辨即ち金峰山に入って持念し玉ふに夢中に蔵王告げ玉はく、此の山の黄金は我敢へて恣にすることを得ず。弥勒の出世に地に舗くべき料の金なり。汝に別に方を示さん。江州勢多郡に一の山あり。如意輪観自在霊応の地なり。汝彼に至りて持念せば必ず黄金を得んと。辨公大に悦んで便ち勢多に赴く。時に老翁あり、石上に坐して釣りを垂る。辨問ふて曰く、汝は何人ぞ。対へて曰く、我は是山主比良明神なり、此の地は観音の霊区なりと、云畢って見へず。辨其の石に就て庵を結んで如意輪の像を安んじ祈念し玉ふに程なく奥州より黄金を貢物にしければ、佛の威力、観音の神変なりと、帝も良辨も悦び玉ひ即ち薄として大仏に塗り玉ふ。練金一万四百三十六両といへり(約6.5億円か)。公卿百官皆大に悦び中納言大伴家持が歌にも
「すべらぎの 御代栄へんと 東なる 陸奥山に 金花さく(万葉巻18-4097すめろぎのみよさかえんとあずまなる みちのくやまにくがねはなさく)」とよめり。其の後丈六の如意輪大悲の像を造て先の小像を體中に納め玉ひ金剛蔵王及び執金剛神の像を八尺に刻みて脇侍となし玉ふ。但し今の尊像は興正菩薩の作なりと云。昔伽藍の地を夷(たいら)ぐる時に、地中より五尺の寶鐸を掘り出しければいよいよ霊地なることを知るといへり。(元亨釈書 巻二十八寺像志(石山寺)「辨就其石。縛盧安如意輪像持誦。不幾。奧州始貢黄金。爾後刻丈六大悲像藏先像於中。亦造金剛藏王及執金剛神安左右。其像各八尺。當夷其趾。地中得五尺寶鐸。益爲靈地」。)良辨僧正は百済氏、近江國志賀の里の人なり。又は相模國の人なりとも云。其の母年の盛りまで子なかりければ観音に祈て此の良辨を生みけり。二歳の時母桑を採るに其の木陰に子を据置きけるが思ひあへぬ鷲が来りて子を掴みて飛びけり。あなかなしやと走り行けども翅軽きものにて掻き消すやうに雲に入りにき。孔子の鯉に別れ、楽天がさきだてん思はざる事なれども(史記・孔子世家「孔子、鯉を生む、字は伯魚。伯魚、年五十、孔子に先だちて死す。」)是は例なき歎きにぞありける。其の頃南都に義淵僧正と云あり。春日の神祠に詣で玉ふに鷲ひとりの児を弄ぶあり。人音にや驚きけん児を野に残して遠く飛び去りき。僧正見捨てがたきやありけん、取りて育まれんに五歳よりはじめて学問するに一を聞て十を知る天才なり。其の後法相宗を学び華厳の奥旨を傳ふ。慈訓(
奈良時代の山階寺(後の興福寺)の僧。河内国船氏の出身。経論を写経所に貸したり借りたりするのに奔走、七五五(天平勝宝七)年宮中講師。翌年聖武天皇の病気に看病禅師・華厳講師を務め、その功で少僧都。のち道鏡からの圧迫で少僧都を解任されたが、道鏡失脚で復した)・審詳(奈良時代の華厳僧。新羅出身とも、新羅へ留学した学僧ともいう。天平一二年(七四〇)より良弁の勧めで金鐘寺において「華厳経」を講じて慈訓・鏡忍ら多くの学僧を指導し、良弁とともに日本華厳宗の基を開いた。)の二師は賢首国師(唐僧。賢首大師,香象大師,華厳和尚などともいう。華厳第3祖。祖先は中央アジアの康居出身。智儼から華厳の教えを聞き,咸亨1 (670) 年出家。しばしば『華厳経』を講じて名声を博し,『華厳経』などの訳経に参与し,長安,洛陽をはじめ各地に華厳寺を創建。また則天武后の信任が厚く,西明寺における祈雨,洛陽での舎利供養などの大任を果した。『華厳経探玄記』『華厳経旨帰』『華厳経遊心法界記』『大乗起信論義記』などの多くの著書があり,華厳宗を大成)に逢て華厳宗を聞くといへども宗風扇がず、良辨僧正に至りて大に流布せり。母は鷲のつかみ行くを尋ね彷徨ひて知らぬ山路遥かの海を越へ、昼は野原の草を分けて子を思ふ雉の鳴くにも涙を誘はれ、夜は孤村の辻に臥し親を慕ふ犬の聲に哀れを催ほされ、一挙の糧乏しく半日の命のうきこと幾たびこそかありつらめ。昨日すぎ今日慕て三十年ぞさまよひける。心は老騎の千里を思へども疲れは飢鷹の一呼を待つにたへがたくやありけん。故郷に還りなましとて淀舟に乗る。知らぬ国知らぬ里の人も乗りければ思ひ思ひにさへずり出せる中に、世にめずらしき事こそ侍れ、奈良の京に住みをはします良辨僧正は御門の御帰依厚く、世に聞へも例なく侍るが此の僧正は幼き時、鷲の掴み来て捨てたりし人にてありとぞ語りける。余所ながら聞くも心もそぞろに飛立つばかりにて、奈良の京に来り、とかくして東大寺の比丘を尋ねて此の事を語りければ、比丘の曰く、良辨僧正は鷲の掴みて来りし事は實なれども今帝の尊敬し玉へる天下に比なき高僧なり。汝が賤しき姆の言うこと卒爾には申し上げ難し。若し上に達せんと思はば此の事を書きて道の傍に立てよと云。姆大に悦んで道の傍に立て其の傍に臥すに、僧正春日の洞に参詣し玉ふに供奉の人甚だ多し。時に何やらん道の傍に書きて立てたるあり。怪しみて見玉へば母猶存命なりと知り玉ひ驚き悦びて姆を召して事の子細を尋ね玉ふに、供奉の人々は皆怪しみけり。さて我が母なりと云ふ、然らば我が身に於て験ありやと。姆泣きて曰く、我昔子なかりし故に観音に祈て産みたれば一寸八分の観音の形s像を作りて子の頸に掛しめたり。鷲の掴みし時も其の像を掛けしめたり、知らず今にありやと。良辨僧正涙に咽びて伏し転び玉ひ、我七歳の時義淵僧正観音の小像を授けて曰く、我汝を拾得たる時に此の像汝が頸に掛けてありき、おそらくは汝が父母これを懸けたるならん、汝は父母を知らず此の観音を父母と見て賜りぬ。其れより今まで守護に掛けて暫くも身を離さず。然れば媼は実に我が母なり。是是人々御覧ぜよとて、御守袋より観音の形像を取り出して母にも見せ諸人にも拝せ玉ひ大に悦び玉ひて即ち母を具して寺に帰り寺の傍に房を構へて孝養を盡し玉ふ程に諸人の尊敬も夥しかりけり。さて三十餘年が間、愁苦難辛して子を尋ねては貧しく賤しき子に逢ひたらんも喩んかたなく嬉しかるべきに、況や天の君の師範たる智行並びなき高僧を我が子ぞとて尋ね逢ひたらん心の中いかばかりかうれしかりけん。言に述べるもおろかなり。悉く是観音薩埵の擁護の御力なり。其の後母堂臨終めでたく往生し玉ひければ諸人貴みて子安の神と祝ひて社を建て大仏の西の方に今にあり(現在も東大寺子安神社は大仏殿と指図堂の間で、白壁の土塀に囲まれた場所に祀られている)。
始め鷲の掴み来りし時、集めたりし木は檪(あふち・クヌギ)の木にてありしが鳥羽院の天永九年(1113年)に自ら倒れて其の後に杉生ひたれば俗に是を良辨杉と云(今も東大寺二月堂にある。今の杉は昭和36年に植え替えられた4代目。初代の良弁杉は樹齢600年を超える巨木であったが枯死)。宝亀四年(773年)閏十一月十六日に遷化し玉ふ。良辨僧正は弥勒菩薩の化身、聖武天皇は如意輪観音の化身にして聖徳太子の再来なりといへり(東大寺要録「良辨僧正は弥勒菩薩の化身・・聖武天皇は聖徳太子の後身、救世観音の垂迹なり」)。石山は三十三所の第十三番の寶札なり(現在もそう)。