少し長くなりましたが、折りしもNHK大河ドラマで、松蔭が出ているのと,全身、大和魂に満ち溢れ、国を憂いながらも、決然として、憂国の意志を曲げなかった人物が、100年前まで存在していたこと。そして、人間の最も大切なことは、「教育」であることを教えてくれていることから、つい書き留めました。やはり、松蔭と同じ頃の教育者であった、新島襄も、「全身に充満したる丈夫のこの地から出でん事を」といい、「男子一戦して止まず! 再戦して止まず! 参戦して止まず! 刀折れ矢尽きて止先ず!骨砕け血尽きて止無のみ!」と、徳富蘇峰らの学生を激励しました。明治の意気やよし!!
本題に戻ります。之も中山ご住職の話です。「明治初年、高野山の山科俊海大僧正が、弘法大師の教えを広く教化するため江戸に出て、巡行しているとき、この地にきて、不思議な燐火がたびたび浮かんでいるのを見たといいます。さらに、数多くの無告の諸霊,鬼哭愁々と何かを訴えるような魂魄の声を聞き、大慈大悲の徳を感得されずには、おられませんでした。さらに、寄る辺のない無縁の諸霊、ここで処刑された吉田松陰らの勤王の志士の霊を慰めなければならぬ。この、世にも恐ろしい地獄のような牢獄跡地と処刑場こそ、極楽浄土にしなければならずと、明治5年から、勧進し、同8年、堂宇を建立したのが、始まりです。このときの、堂宇の建設には、大倉財閥の大倉喜八郎、安田財閥の安田善次郎氏らが、浄財を寄進しました。大安楽寺の名は大倉、安田の頭文字をとったもの。このあと、諸堂、伽藍を整備、准別格本山になりました。しかし、大正12年の関東大震災で、壊滅。昭和3年、現在見られるような、規模の諸堂伽藍が整備された」とのことです。
確かに、ここが処刑場であったとは知らなかったのですが、しかし伽藍から本堂に向かう頃から、えも言われない一種独特の陰鬱な空気が漂っているような感じを受けました。やはり、今なお、様々な、怨霊諸霊がうごめいているのでしょう。特に、雨上がりでもあり、堂宇の石柱に江戸伝馬町処刑場跡と文字が刻み込まれ、赤字で示されているので、独特の戦慄を覚えるようでした。當に吉田松陰らが処刑され土の色が変色していたたといわれる跡にはお地蔵さまが建てられてあり、この前で一同、地蔵菩薩のご真言と光明真言をおとなえしました。この時こころなしか空が明るくなったように思えました。
門の近くには、運慶作の北条政子の持仏であったという八臂弁財天女がありその腹籠には弘法大師作と相伝える弁天様の御姿がおさめられているといいます。他に大阪城に安置してあった身長五尺の福徳大徳天像・兆殿司筆の涅槃像・覚鑁上人筆の不動像・中将姫作と伝える三尊来迎弥陀等があるようです。
御詠歌 あなとうと みちびきたまへ かんぜおん はなのうてなの 安らぎの寺
中山ご住職はわれわれが山門から出たあともいつまでも見送ってくださっていました。(続