3月4日(日)晴れ暖か【趙州洗鉢の教え】
昨日に引き続き趙州禅師の洗鉢の話を、宏智正覚わんししょうがく禅師(1091~1157)の『宏智頌古百則』第39則「趙州洗鉢」から考えてみたい。
〈原文〉
挙僧問趙州。学人乍入叢林。乞師指示。州云。喫粥了也未。僧云。喫了。州云。洗鉢盂去。
頌曰
粥罷令教洗鉢盂。豁然心地自相符。而今参飽叢林客。且道其間有悟無。
〈訓読〉
挙こす。僧、趙州に問う。学人がくにん乍入叢林さにゅうそうりん、乞う師、指示せよ。州云く、喫粥きっしゅくし了おわれるや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂はつうを洗い去ゆけ。
頌に曰く、
粥しゅく罷おわれば鉢盂を洗わしむ。豁然かつねんとして心地自おのずから相い符す。而今にこんに参飽さんぽうす叢林そうりんの客。且しばらく道いえ、其の間に悟有りや無しや。
〈試訳〉
話を取り上げる。一人の僧が趙州に尋ねた。「私は叢林に最近入ったばかりのものです。どうぞ、私にお教えを願います」。趙州は言った。「朝のお粥は食べたかね」。僧は答えた。「はい、食べました」。趙州は言った。「それでは鉢盂を洗って来なさい」。
頌
粥を食べ終われば鉢盂を洗わせる。それで僧の迷いはにわかに晴れて、心境は自然と悟りと一つになった。今叢林には充分に学び得た僧たちが訪れてくる。さあ、言ってごらん、そこに悟りがあるかないか。
南泉から「平常心是道」を学んだ趙州は、趙州の元に参じてくる雲水たちに親切心を尽くして導いている。趙州の禅は口唇皮禅こうしんぴぜんといわれる。臨済の喝、徳山の棒などとそれぞれの禅師の接化の特徴が表現されるが、趙州は口唇を使っての接化が特徴である。八十を越えてから、参じ来る雲水たちを教え導く姿を思い浮かべれば、まさに 口唇皮禅が合っているだろう。しかしその言葉はそれぞれの力量を見抜いて、常にピタリとそれぞれに合った言葉であったろう。
この僧も叢林に入ったばかりの者ですが、と言っても、あちこちで修行し、道を求めてきた僧であるから、「平常心是道」と「鉢を洗っておいで」が同義であることを分かることができたのである。漫然としていてはそれはないだろう。日々の修行を怠りなく平常心、是道として歩んでいればこそ、このハタと会得するところがあるのであろう。
それを宏智さんは、その頌の2句目に詠んでいる。この僧は趙州の言葉に覚るところがあったのである。3句、4句は宏智さんの元に参じている僧や、あちこちの叢林の僧たちに対して、お前さんたちはさあどうかね、と問いであり、激励を投げかけていると、私は受けとっているのだが、果たしていかがであろうか。
今夜は満月、先刻までまんまるの姿が見えたのに、雲に隠されてしまった。しかし雲の上にはお月様は変わらずに輝いている。ただ今は見えないだけのこと。来週も頑張りましょう。(一週間は日曜日からスタートしますか、それとも月曜日から。日曜日は安息日でありたいので当庵では月曜日からとします)。
*参飽:飽参に同じ。充分に会得した、という訳が『大漢和辞典』などにあるが、私はここではあちこちと参じて充分に学んだ、という意味にしました。
昨日に引き続き趙州禅師の洗鉢の話を、宏智正覚わんししょうがく禅師(1091~1157)の『宏智頌古百則』第39則「趙州洗鉢」から考えてみたい。
〈原文〉
挙僧問趙州。学人乍入叢林。乞師指示。州云。喫粥了也未。僧云。喫了。州云。洗鉢盂去。
頌曰
粥罷令教洗鉢盂。豁然心地自相符。而今参飽叢林客。且道其間有悟無。
〈訓読〉
挙こす。僧、趙州に問う。学人がくにん乍入叢林さにゅうそうりん、乞う師、指示せよ。州云く、喫粥きっしゅくし了おわれるや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂はつうを洗い去ゆけ。
頌に曰く、
粥しゅく罷おわれば鉢盂を洗わしむ。豁然かつねんとして心地自おのずから相い符す。而今にこんに参飽さんぽうす叢林そうりんの客。且しばらく道いえ、其の間に悟有りや無しや。
〈試訳〉
話を取り上げる。一人の僧が趙州に尋ねた。「私は叢林に最近入ったばかりのものです。どうぞ、私にお教えを願います」。趙州は言った。「朝のお粥は食べたかね」。僧は答えた。「はい、食べました」。趙州は言った。「それでは鉢盂を洗って来なさい」。
頌
粥を食べ終われば鉢盂を洗わせる。それで僧の迷いはにわかに晴れて、心境は自然と悟りと一つになった。今叢林には充分に学び得た僧たちが訪れてくる。さあ、言ってごらん、そこに悟りがあるかないか。
南泉から「平常心是道」を学んだ趙州は、趙州の元に参じてくる雲水たちに親切心を尽くして導いている。趙州の禅は口唇皮禅こうしんぴぜんといわれる。臨済の喝、徳山の棒などとそれぞれの禅師の接化の特徴が表現されるが、趙州は口唇を使っての接化が特徴である。八十を越えてから、参じ来る雲水たちを教え導く姿を思い浮かべれば、まさに 口唇皮禅が合っているだろう。しかしその言葉はそれぞれの力量を見抜いて、常にピタリとそれぞれに合った言葉であったろう。
この僧も叢林に入ったばかりの者ですが、と言っても、あちこちで修行し、道を求めてきた僧であるから、「平常心是道」と「鉢を洗っておいで」が同義であることを分かることができたのである。漫然としていてはそれはないだろう。日々の修行を怠りなく平常心、是道として歩んでいればこそ、このハタと会得するところがあるのであろう。
それを宏智さんは、その頌の2句目に詠んでいる。この僧は趙州の言葉に覚るところがあったのである。3句、4句は宏智さんの元に参じている僧や、あちこちの叢林の僧たちに対して、お前さんたちはさあどうかね、と問いであり、激励を投げかけていると、私は受けとっているのだが、果たしていかがであろうか。
今夜は満月、先刻までまんまるの姿が見えたのに、雲に隠されてしまった。しかし雲の上にはお月様は変わらずに輝いている。ただ今は見えないだけのこと。来週も頑張りましょう。(一週間は日曜日からスタートしますか、それとも月曜日から。日曜日は安息日でありたいので当庵では月曜日からとします)。
*参飽:飽参に同じ。充分に会得した、という訳が『大漢和辞典』などにあるが、私はここではあちこちと参じて充分に学んだ、という意味にしました。