4
月20日(日)曇り【林芙美子の家】
今日は新宿の下落合にある林芙美子の家に立ち寄ることができた。林芙美子は、ほとんどの方はご存じであろうが、昭和のはじめに活躍した小説家である。昭和
5年に発表した『放浪記』は、ベストセラーとなり、一躍女流文学者として世に出たのである。このとき芙美子27歳である。
23歳のとき、画家の手塚緑敏と結婚しているので、4年後にはベストセラー作家として既に世に認められるところとなっている。悲惨な貧乏生活を描いた作品
を読んだ記憶があるが、それはそれほど長い期間ではなかったようである。
林芙美子が下落合に作った家が、今は林芙美子
記念館として、公開されている。
実は私は中学時代、西落合というところに住んでいて、この家の門を覗いたことがある。有名な小説家が住んでいた家であると いうので、憧れて覗いたのである。その頃は緑敏氏が存命であったので、勿論公開はされていなかったので、格子戸の門の間から覗いただけのことであるが、た またま今日前を通ったら、記念館として入館できるようなので、足を踏み入れることができた のである。 (書斎) 芙美子が200冊以上もの建築の本を参考にして、図面をつくったという家だけあって、どの部屋も行き届いたかつてのこれぞ日本家屋という造りをなしてい た。山口文象という人の設計だというが、数寄屋造りとはこのような造りなのかと、あらためて風情のある造りに惚れ惚れとした思いで飽かず眺めた。芙美子が いかにこの家を愛情こめて造ったか、庭の花や植木やそれこそ石一つにもそれが感じられた。
それこそ心血を注いで造ったようなこの家に、芙美子が住むことができたのは、38歳から48歳の6月までのわずか10年に満たない。昭和26年6月28 日、心臓麻痺で亡くなったのである。連載を何本もかかえ、寝る間も惜しんで原稿書きに追われ、今で言えば過労死に当たる死ではなかろうか。 養 子に迎えた泰少年も芙美子の死後まもなく14歳で一期を終えている。ご主人の緑敏氏は平成になってからお亡くなりになったそうである。
皆さんも是非一度記念館を訪れてみてください。入館料は150円です。また親切なボランティアのかたの説明も受けることができます。今日は思いがけず、ほ ぼ50年も前にその家を興味深く覗いた家の中に入ることができ、作家の息吹にちょっとだけ触れることができ、また日本の家屋の良さをあらためて堪能したこ とを紹介しました。
林芙美子記念館:西武新宿線「中井」下車、徒歩7分。月曜休館
実は私は中学時代、西落合というところに住んでいて、この家の門を覗いたことがある。有名な小説家が住んでいた家であると いうので、憧れて覗いたのである。その頃は緑敏氏が存命であったので、勿論公開はされていなかったので、格子戸の門の間から覗いただけのことであるが、た またま今日前を通ったら、記念館として入館できるようなので、足を踏み入れることができた のである。 (書斎) 芙美子が200冊以上もの建築の本を参考にして、図面をつくったという家だけあって、どの部屋も行き届いたかつてのこれぞ日本家屋という造りをなしてい た。山口文象という人の設計だというが、数寄屋造りとはこのような造りなのかと、あらためて風情のある造りに惚れ惚れとした思いで飽かず眺めた。芙美子が いかにこの家を愛情こめて造ったか、庭の花や植木やそれこそ石一つにもそれが感じられた。
それこそ心血を注いで造ったようなこの家に、芙美子が住むことができたのは、38歳から48歳の6月までのわずか10年に満たない。昭和26年6月28 日、心臓麻痺で亡くなったのである。連載を何本もかかえ、寝る間も惜しんで原稿書きに追われ、今で言えば過労死に当たる死ではなかろうか。 養 子に迎えた泰少年も芙美子の死後まもなく14歳で一期を終えている。ご主人の緑敏氏は平成になってからお亡くなりになったそうである。
皆さんも是非一度記念館を訪れてみてください。入館料は150円です。また親切なボランティアのかたの説明も受けることができます。今日は思いがけず、ほ ぼ50年も前にその家を興味深く覗いた家の中に入ることができ、作家の息吹にちょっとだけ触れることができ、また日本の家屋の良さをあらためて堪能したこ とを紹介しました。
林芙美子記念館:西武新宿線「中井」下車、徒歩7分。月曜休館
これは是非とも見に行かなければなりませんね。
林芙美子のことは、放浪記の名前を知っているだけで・・・そう言えば、NHKの連続ドラマでもやってましたが、あまりよく存じません。
項が違って申し訳ありません。
犬の里親をやってますと、当然のように犬の最後を看取ることが多いのです。
中には、医療費やら特別の療養食やらでお金のかかる子もいます。私が拾って姉の家に預けた猫は、月に医療費が5万円もかかりました。
健康であっても、フィラリアの予防薬、ノミダニの駆除薬で月に数万円掛かります。
そのほか猫エイズに罹ったり、電話のコードを飲み込んで手術代が15万円も掛かったりして大変でした。
そういった子達が亡くなるのは、寂しさもありますし涙も出ますが、正直に言いますと一面ホッとしている部分も有ります。
そのようなわけで最近は、最後まで手を尽くして万全の看護をして、最後を看取ったら良しとしています。
原稿取りが待たされた部屋、お気に入りの原稿取りが招かれた部屋、ピアノの部屋(記憶違いかも知れません)、庭、裏山の立派な元?花園が印象に残っています。確かすぐ近くに哲学堂公園がありそこにも行きました。素晴らしい所でした。
山手通りから少し西に入ったところなのに、戦災を免れています。ここが焼かれなかったなんて、東京空襲は以外に狭い範囲だったのかと、思ったことを思い出します。昔の東京は今よりはもっと小さく、山手通りの西はもう郊外だったのでしょう。
このジュリーのお陰でご近所の輪ができたような具合です。このあたりに越してきて3年くらいになりますが、初めて顔を合わせ、初めて言葉を交わした人がいるほどです。
みんなで襁褓を買ったり、餌を買ったりしています。
うさじいさんは、随分犬や猫ちゃんにお金がかかってしまっているのですね。でもきっとお世話になった犬や猫が感謝しているでしょうね。
私の方は、かえってジュリーに感謝していることのほうが多いです。
ピアノのあった部屋はご主人の緑敏氏のアトリエだったかと思います。
数寄屋造りと民家風の味のある造りが混在した実に凝った家ですね。あの頃は小説が一つ二つベストセラーになったくらいで、あのような家を建てることができたのでしょうか。東京への集中が今ほどではなかったでしょうし、腕の良い職人さんも多くいた時代でしょう。
残して欲しい文化財ですね。