mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

機能的な簡素化

2023-05-25 07:16:42 | 日記

 「わたし」のハレとケ

 お遍路から戻ってきて、2週間、「ご報告」を書き上げ、お遍路前の日常が戻ってきて、もう一度「お遍路」というハレとそれまでのケとがどう違うか、何処が違うか考えてみました。「ご報......

  運転免許を得るには75歳をすぎると「認知機能検査」を受けなくてはならない。免許の更新も3年毎となり、その都度呼び出されて十数人が机につき、職員二人が付き添って説明をし、記憶機能のテストの絵をかざしてそれが何であるかを口頭でいい、時間を測って次の項目へ移る。おおよそ30分足らずの検査の後、その採点、検査発表を行う。だいたい1時間半くらいかかったかな。
 ところが今回、指定時刻5分ほど前に検査室へ案内される。5席しかない。しかも皆壁に向かって座る。机上にはタブレットと画面用のペンとヘッドフォンがおいてある。手順から検査開始から回答も含め、皆それで進行する。しかも、検査が半分も終わらないうちに「検査終了」となり、職員がその後の手続きを説明して開放された。この間、約15分。
 これまでは「認知機能」の100点満点中95点とか 93点とか検査結果表をもらっていたのも「認知症の恐れがある基準には該当しませんでした」と記されたペーパーを受け取って、次の運転技能検査を受けることになると告げられた。すっかり簡略になった。
 これまでは、何だ同い年(のはず)なのに、こんなにヨロヨロ階段を上がるのかと同席する人を見ていたのも、なくなった。15人ほど検査を受けた人のうち1/ 3ほどが精密検査に回っていたとわかることもなくなった。簡略になるというのは、機械と向き合っているだけで、周辺の人と我が身を比べて位置づけるようなことも見えなくなる。これは、人がひとの群れから離れて孤立するってことだね。いいことか悪いことか。
 あ、それと、日本語の読み取りが遅い人は困るかもしれない。「次へ」というボタンをクリックするようにはなっているが、書きつけるのにも時間制限がある。私は始終パソコンに向かって文字をタイプしているから不都合なくできるが、なれない人はタブレットの文字を書くのも、オロオロしてしまうに違いない。この機械による簡略化がAIを用いて受検者の回答速度も測っているのだとしたら、きっと困ったことになる人がたくさん出来するに違いない。車に歩く人が用心するよう適応してきたように、AIに適応する社会になってきている。これは、ヒトを大きく変える。そうか、こういうことをシンギュラリティと、カーツ・ワイルは呼んだのか。
 やれやれ、いいことか悪いことかという二者択一ではなく、面倒な社会をヒトってのは作ってきたんだなあ。しかも過ぎ去った過去はすでになくなっているんじゃなくて、無意識に深く沈潜堆積している。そしてときどき、アメリカやロシアや中国のように表面に吹き出して争いごとを引き起こしている。
 わたしら庶民は「ふるさと」を身の内に抱えて懐かしみながら、ひたすら適応の道を歩み、ときどきレジャーとやらで憂さ晴らしをして過ごすしかないのかな。

脳梗塞

2023-05-24 16:24:42 | 日記

自然が主体の世界

 オミクロンという変異株に用心しようという。コロナウィルス禍も変移している。なぜ感染が減少しているのかわからないと同様、なぜ変移するのかもわからない。変移しても、感染力が強く......

 パソコンが起動しない。いや、電源が入っていない。コードはきちんと繋がっているのに、ランプが付いていない。PCの主電源を入れても、そちらも反応しない。巻いたなあ。
スマホでPCのカスタマーセンターに電話で助けを求めようとしたが、顧客登録をしてないと受け付けてくれない。したかなあ、してないかなあ。改めてしようとしたが、アクセス番号が送られてくるメールを見ようとすると、登録画面が消えてしまう。どうすりゃあいんだ。若い人はどうするんだろうと、ふと、思う。
 結局、PCを買った店に持っていった。どこが壊れているか、メーカーに送ってチェックし、修理費用などをみつもってもらって、全部終了するのに2週間はかかるとのお告げ。バッテリーがだめなこともあるし、windowsが故障していることもある。
 PCって精密機械ですからねと説明されても、納得できない。だって、この機種も前に使っていたのは、ほぼ十年間使い続けた。2年前に買い替えたのも、前のが壊れたからではなく、動きが悪くなり、故障したら大変だと、バックアップのつもりであった。でも、買い替えたらご機嫌をそんじたのか、前の機種が本当に半身不随になった。十年間もご苦労様でした。だがこちらはまだ2年。脳梗塞のように、突然動かなくなるのは、ちょっと早いんじゃないの。
 しばらくは、この簡易PCもどきで、代替しなくてはならない。じつはこれ、動かし方がまだわからないんだね。これも手探りで使っていくしかない。そもそもブログにアップできるのかも、わからない。まいったねえ。

「まつりごと」が日常になるには?

2023-05-23 08:33:46 | 日記
 ゼレンスキー・ウクライナ大統領が突然訪日したことで、一挙にG7に衆目が集まり、評判が上がりました。御膳立てをした岸田首相は助演男優賞という格好です。評判のお裾分けなのに支持率が上がって、早速解散の話に政界雀たちは囂しくおしゃべりをはじめました。でもなぜゼレンスキーの来たことが、私たちの関心を惹きつけているのでしょうか。
 日々攻防が伝えられる戦場の最高責任者がやってきたという野次馬の目が大方を占めていると私は感じます。どうやって来たのだろう。飛行経路を秘匿してやってこられるものなのだろうか。フランス政府の専用機を借りていたいうが、飛行途中で(ロシアやそれに味方するどこかが)それを撃墜するというのは、明らかに第三次世界大戦の引き金を引くことになる。この来日のさまが劇的ではないかと興味関心を惹き寄せる。
 何をしに来たのか。当然支援をより鞏固に取り付けるため、兵器・弾薬をより多く援助願いたいため、できればこれまで中立的立場に立ってきたグローバルサウスの国々もウクライナを支援するように願いたいため。リモートでG7に参加するといっていたけど、実際現場に足を運んで顔を合わせる方が間違いなく「効果」的だ。いかにも元俳優だっただけのことはある。
 でも、野次馬の日本人が・・・と考えていたところへ、TVの画面から「広島の人たちにとっては・・・」とゼレンスキーの原爆資料館などの訪問を報道するアナウンスが続き、おやおやヒロシマもついに「広島の人たち」のことになっちゃったのかと、当事者性の狭くなったことに気づかされた。ヒロシマの人たちとしては、78年前の広島と現在のウクライナを重ねてみていたでしょうし、ゼレンスキーは現在の広島を復興ウクライナの将来に重ねて言葉にしていました。そのズレが懲りない人類史を著しているようでした。
 それで気づいたのですが、G7の首脳たちを案内した広島・平和公園の戦没死没者慰霊碑が、あなた方を待っていたのよと語りかけているように思えました。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しません」という碑文は「主語が曖昧」とか「原爆を落とされた日本人が口にする言葉じゃないだろう」などと非難を受けていました。でも、G7の首脳が口にする言葉としてなら相応しい。主語が曖昧なことを特性とする日本語が実は、人類史的な「反省」を表現していたということが浮き彫りになりました。だがね、G7の首脳たちが裏表なくこの碑文のいうように振る舞ってくれればですがね。
 広島という平和を願う地で兵器調達の話をするのは似つかわしくないという意見もTV報道は伝えていました。どうして? と思いますね。G7に要望するゼレンスキーの兵器支援要請は、文字通り直面するウクライナの戦争を戦前前の状態に戻す。ま、クリミアをどうするかで子細の差異は生じるでしょうけど、大雑把には昨年の2月22日以前の状態に戻れば、ロシアとの和平交渉にウクライナも同席することになるでしょう。先ずロシアが撤退すること。逸れなくしてウクライナに譲歩を迫るとすると、中国の台湾侵略は止めようがありません。ここで俄然私は、当事者になったように思います。ウクライナの趨勢が、台中関係の帰趨を制することに直結していると私は考えています。もちろん私のウクライナ贔屓を隠すつもりはありません。ウクライナの人々は、日本の私たちと似たような暮らしのレベルを持ち、似たような社会習慣の上に日々を送っていたと感じているからです。例えば日本の沖縄や南西諸島に、かつて宗主国であったからといって中国が軍を派遣するようなことがあれば、如何に何でもそれは許せないと戦うしかないと思っています。ウクライナに於けるロシアの立場を少なくとも侵略開始前に撤退させることができないでは、台湾どころか沖縄さえ日本は、護ることができない。そう思います。切実な当事者です。そういう意味で、ゼレンスキーの訪日は的を射ていたし、それが広島でヒロシマとイメージを重ねてG7首脳に要請したこと、インドの首相と会談したことは効果を持つと感じました。
 こうやって、当事者性をきっちりと位置づけていさえすればいいのですが、巷の評判がもっぱらドラマをみている観客としての視線で形づくられるのはどうなんだろうと、判断を保留したくなります。いやそれでも、ウクライナへの心情的な共感は身の裡に培われているよといえば、そういうものかと思わないでもありませんが、野次馬では矢っ張り力になれないのではないかと心配です。
 そういう意味では、ブラジルの大統領が「待っていたけどゼレンスキーが来なかった」と会見しなかったことを「残念がって」いましたが、第一報は、ルラ大統領がゼレンスキーとの会見場に現れなかったというものでした。どちらが真実か分かりませんが、ロシアの言い分にも耳を傾けろと常々主張してきたブラジルの大統領ですから、ゼレンスキーもぎっしりつまった日程を無理して開けてでも会談しようとしなかったのかもしれません。
 ただルラ大統領が、「G7の場ではなく国連で話し合うことでしょう」と言っているのは、「正論」でしょう。だが国連総会でロシアの撤兵を決議しても、どこ吹く風のロシアです。そもそもウクライナに兵を進めたのが、国連憲章違反ということもブラジルの大統領が知らないはずはありません。国連がもはや調停や調整で力を持たないことは、誰もが知る事実です。つまりルラ大統領にすれば、言ってみただけだったんでしょうよ。これは、偏狭になるかどうかではなく、どういう位置でこのモンダイの当事者なのかを明確にさせないと遣り取りできないことだと言えます。
 さてG7は終わり、それぞれの日常へと首脳たちは戻っていきました。ゼレンスキーは無事に戦場へ戻ったんでしょうね。お祭り騒ぎをして、後はまた日常が戻ってきたというのでは、G7は(私たち庶民にとって)文字通り「政/まつりごと」。庶民にとってはハレの場、選挙と同じでちょっとした気晴らしの時を過ごしたに過ぎない。そうそう、消費したってわけさ。「政/まつりごと」が庶民にとって日常にならない限り、庶民が政治の当事者になることはない。そう見切ったワタシが、今も私の身の裡に潜んでいます。


気分が左右している政治動乱

2023-05-22 08:41:44 | 日記
 安田峰俊『八九六四――「天安門事件」から香港デモへ[完全版]』(角川新書、2021年)を読んだ。天安門事件といえば中国民主化の兆しと受けとっていましたから、その弾圧やその後の権威主義的統治の推移を見ていると、民主主義香港の圧倒的制圧とか台湾侵攻の危うい動向も一連の情勢として視野に入る。それはまた、天安門事件のことを概念化することになります。大きな潮流の中においてみると、あの時中国は現在の統治体制へと舵を切ったとみえ、翻って中国の民主化は、あの事件の時にアメリカが経済的関係の利害から中国を見ていて(民主化を)見誤ったと受けとってしまいます。そうやって私も、天安門事件のことを胸中に収めてきました。
 ところが本書は、ルポライターの安田峰俊が天安門事件に「かかわった」人たちを、その二十数年後とか三十年後に訪ね、8964のとき、何処で何をし、何を考えていたか、その後それはどう変わったかに着目しながらインタビューをして全体像を描き出そうという試みです。それは、八九六四を軸にして人生と世界を浮かび上がらせます。言葉にするとつまらないことをいっていると見て取りながら、天安門のヒーローとして名を馳せた自分の後世に伝えるお役目として己に課している人もいます。あるいは安田自身が、言葉だけが軽々と繰り出してつまらない人だと見切ってインタビューを打ち切った人の姿も現れます。
 そうしてその一文一文が、概念的な把握を簡単に覆して、ワタシのセカイ認識をあらためさせるようです。このリポライターの視線と記述の手順と、その背景に横たわる人間観や社会観、世界観の奥行きが深いからか。やはり鏡としてワタシを映してページを繰る手を誘うのです。
 安田峰俊は、北京のその現場にいた人たち、遠く離れた東北部やチベットや南部にいた人たち、日本に留学していて民主化を支援していた人たち、アメリカにいて後に国籍を取得した人たち、あるいはいろんな経緯を経て台湾に落ち着き、今も大陸の若い人たちと遣り取りする機会を持っている大学教授と辿ってゆき、最後を香港の雨傘運動とその後の国家安全法の施行と人々の沈黙などを、運動の細部に目を配りながら関わった人々の心裡の欠片を組み合わせていき、中国は今どうなっているかを描き出しています。
 そうやって振り返ってみると、世界の動乱は何を内発的な契機として起こっているかワカラナイ。みている人にワカラナイだけでなく、その場にいる人にもわからないということが浮き彫りになります。渦の中にいては自らのしていることを見て取れることができないと言えるのかもしれません。ルポライターというのは、その現場にいながら、なおかつ、ステップアウトして全体像をとらえるために、細部にインタビューを重ねて、歳月を隔ててイメージを総合していく作業をしているのだなあと敬意をいだいています。その手際に感嘆の溜息をつきながら、ワタシのセカイの欠片を一つ塗り替えている。それが読後感です。


専門家ってなあに?(3)ローカルこそが普遍というパラドクス

2023-05-21 10:33:28 | 日記
 ひとは大雑把に「専門家」という言葉を用いる。その意味する所が何であるかは、時と場合とひとによって異なってくる。その内実は「知的権威」と私は考えているが、大抵は「肩書き」で以て判断している。大学の教授であるとか、建築設計に携わってきたとか、政府の防疫機関の研究者として従事しているという「肩書き」である。
 コロナ禍がはじまった頃、TVのコメンテータとして随分たくさんの感染症の研究者や防疫機関の専門官や医師が出演し、いろんなトーンで喋っていた。その中の女性の専門家は、初め登場した頃には素顔の地蔵通りのおばちゃんという風情であった。何度も登場するうちにだんだんおしゃれになり、髪かたちも変え、顔つきまで洗練されてきた。彼女の話よりも、その様子の変化の方が話題になっていた頃、私と同年の老爺の一人がいかにもインチキ臭いものを目にしたように、彼女のことを「何が専門家だ。バカなことをしゃべってやがる」と口汚く誹った。「えっどうして?」と訊いた。彼は「あんないい加減なこと」と何を指していたのか分からないが、みるのもイヤだという風情であった。
 自分の聞きたくないことをいかにも専門家面して喋るコメンテータも結構いるから、彼女もその一人に祀りあげられたのかもしれない。だが、出演して喋っていることとは別に先述の私のように様子が変わってくることに注目していると、「専門家」というよりは「タレント」の成長記録のように感じている。ありきたりのことを喋ったりするとか、いかにもワタシは知っている(アナタは知らないでしょうけど)という気配が漂ったりすると、何言ってやがんでえと反発を感じることもあろう。
 TVプロデューサの方は「肩書き」で「知的権威」を感じて出演願っているつもりでも、視聴者は、タレントの一人として受け止めるから、その言葉と振る舞いに何の「知的権威」も感じないこともあろう。すると、何でこんなヤツがと反発を食らう。もっとも私と同年の老爺は、功成り名遂げた風の学歴と職歴といった経歴を持つから、エライ人ではある。すぐにひとを馬鹿にして反発するキライもある。だからなぜこの人が当の「専門家」に反発したのかはワカラナイ。知りたいとも思わないからそれっきりにしたが、ひとが何に「知的権威」を感じるかは、人それぞれによって大きく異なることだけは確かである。
 じゃあ、一般的に「専門家」といっても、話が通らないではないかと反撃を食らうかもしれない。そこが、大雑把にとらえる「ことば」「概念」のお蔭で、いちいち騒ぎ立てないで私たちの世間話は通じているのである。
 だから「実践人生80年」の専門家としての私は、それだけで胸を張っていいのであるが、それだけでは胸が張れないと思っている。どうしてか。ただただ生きてきただけだからだ。やはり専門家というのは、知的な何かが加わらなければならない。実践人生80年に知的に加味することとは「批判」である。カントは「実践理性批判」と記した。
 批判というのは「文句をつけること」と近年の学生さんはとらえるようである。だから人の提出したレポートを批判するというのは、喧嘩を売ることと考えている。「そんな失礼なこと」と大真面目で教室で質問したり批判したりするのを排撃するのに立ち会ったことがある。そりゃあないよと、当の教室の秩序を取り仕切っていた私は、質問や批判をした学生をかばった。すると、教師がそういうことを奨励するのはもっとケシカランと口撃を受けた。
 カントがそういう意味で使ったかどうかは知らないが「批判」というのは、対象を見つめ言葉にしてその輪郭を切り分けることと私は考えている。つまり「実践人生批判」というのは、わが人生の過程で身に堆積してきた感性や感覚、好みや思索、判断などの、ほぼ無意識に沈潜している一つひとつを言葉にして取り出し、その由緒由来を探ることである。意識に浮上させ、その由緒由来というからには、対象の出自来歴の淵源を辿ることになる。
 カントさんは「人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだという確信から出発」(1)したという。それを彼は「定言命令」と呼んでいるから、理性が直接命令すると考えている。そして「実践理性批判」では快や欲望からくり出されてくる「命令」は、「快のために・・・」「欲望を満たすために・・・」何かを行うというのは「仮言命令」だとして、理性の命令ではないと言葉にしたのであった。そしてさらに、「習俗や宗教といった特定のローカルなルールが道徳の源泉であると当たり前に考えられていた時代において、道徳を普遍的な視点から規定しようと試みました」(2)と「普遍性」を所与のこととして論展開をしている(上記の(1)(2)はマイクロソフトの生成AIcopilotの回答したもの)。
 だがなぜ「普遍」が所与のことになるのか、なぜ「人間の理性から直接導かれる道徳があるはず」と決めつけることができるのか。そこが私には、ワカラナイ。「ローカルなルールが道徳の源泉」というのを(専門家は)「倫理」と呼んで「道徳」特別するらしい。とすると却って、ワタシ自身の身の形成過程から考えると、倫理こそが身の無意識に刻まれたワタシの規範の源泉である。それがローカルのものではなく普遍的なことへと繋がるべきであるというのは、いろいろなローカルが交通し、ぶつかり合って調整が加えられ、その堆積から生み出されるものではないだろうか。
 80億人もいる人類からすると、80億通りの倫理が身に刻まれ、大雑把に国民国家的に地域分けしても200余のローカルがあり、それらが互いにぶつかり合って共有する「なにか」があるとか、「なにかがあるのがのぞましい」という観念が共有される。それが「普遍」だとすると、普遍というのは、永続革命の果てに夢見るあらまほしき姿である。悲願であり、それがある地は彼岸である。
 カントはその哲学を通して「神を殺した」といわれている。だが、キリスト教的な唯一神の幻影に呪縛されているように見える。そのカントさんからみると、ローカルなセカイで身に刻んだものを「仮言命令」と呼ぶかも知れない。だが、ヒトの生成と径庭を自然存在として考えると、世界宗教的な普遍性を彼岸において、でも間違いなくローカルそのものの人類史を歩む航跡こそが、身の心も一つにして生きている「人生批判」の視座なのではないか。
 ローカルこそが普遍というパラドクス。人の頭脳というのは、理知的に言葉にするから、パラドクスを生きることを必然としたのであった。