mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

他者と失われた三十年

2023-05-09 16:30:56 | 日記
 3月seminarの「お題」でBBC東京特派員・ヘイズ氏の「日本人の不思議」を取り上げた。彼が日本駐在中の30年間に日本は大きく様変わりした。1990年代初頭にはバブルに沸き「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を自認していたのに、30年後のいまや先進国から滑り落ちようとしている。人口減少という事態も明らかに分かっていたのに、外からの人を受け容れようとしない。これを不思議として、なぜなのかと問うたわけだ。
 このseminar展開については3/27と3/28の当ブログ記事に記している。これは不評であった。ほぼ参加者の皆さんは、この「お題」に関心を示さなかった。「そんなこと、お前に言われたくないよ」とか「イギリス人よ覚えておけ!」という(ガイジンに対する)感情的反発の声だけが大きく、なぜそう反発するのかに踏み込まない。福井県池田町の広報誌に掲載された「池田暮らしの七ヶ条」についても、そこへ移住してくる人に「都会風を吹かすな」という池田町住民の警鐘にもまるで心当たりがないかのように、「何で殊更そんなことを取り上げるのか。公平じゃない」と、その話題自体が不愉快というあしらいを受けた。
 あっ、何か私が大きな勘違いをしていたんだ。これじゃあseminarじゃないよねと私は店じまいを考えた。
 このヘイズ氏の「日本人の不思議」にワタシなりの答えを出したいと思ったのが、一昨日から書き記している「2%の世間話」と「原風景と時代の変化と年を取ること」である。概ねこの二つのエッセイを書いて、不思議を解き明かしたつもりになっている。
 つまりヘイズ氏の問題意識に波長を合わせて応えるなら、こういう風に言えようか。
 日本人は長年、その地勢的な特徴から囲われた地で、見知った人々と以心伝心と言っても良いような気配の中で暮らしてきた。それはたぶん、異質な人たちやまるで文明文化が違う集団と日々接して緊張を保つ欧米人が暮らしてきた環境とは大きく異なっていた。
 先ず主語を頭に置いて自らの意思を表明することが優先される欧米の言葉遣いとも異なる。主語が曖昧、状況適応的、場の空気に合わせるという日本人の振る舞い。島国根性と悪口を言われることもあったが、海が防壁となって、方言を含めて似たような言葉を話す人たちとしかかかわらないで一生を過ごしてきた人たちにとっては、知らない言葉を話す人たちをガイジン、つまり他者として心許せない(かもしれない)人たちと警戒心を抱くのは、ごく自然である。
 その感覚は逆に、つねにグルーミングをして同調共感を共にする振る舞いを生み出しもする。自分が今身を置いている場の空気を読んで、それに適応すること。自分の意見を言葉にするよりも場の気配を察知することが優先される。そういう関係に於いては、同調性の感情や共感性の感覚が心裡では常態となって身に染み付く。それが無意識の身をつくる。身の習いとなり、それがまた心地よいという身の習いを再生する。空気を読むとか気遣うという他人との関係を感知するセンスが振る舞いの基底にいつも流れていて、それがまた日本の文化の固有性をつくっている。他人は他者と違って、ベースを共有している。
 だからこそ逆に、他者(=異質な人やガイジン)に接したとき好奇心も湧くと同時に警戒も生まれる。好奇心と警戒心は、見知らぬ相手に向き合う心持ちの裏表。好奇心は主として見知らぬ人がもつコトの異質性に目を向けている。警戒心は見知らぬ人の(推しはかることのできない)心裡を畏れている。知らないことを歓迎もしたいが掻き乱して貰いたくないというアンビバレンツな感情が生まれる。
 見知らぬ存在が親和的か敵対的かという次元で向き合う物語は、民話でも語られてきた。鬼であったり神であったりする。それは身の習いとなった「気配を察知する」ことの及ばない鬼神の領域、異界である。人はそれを自然と読んで畏れ敬ってきた。私たちの暮らしの源泉であると共に見知らぬ災厄をもたらす力を揮う。そうした両義的な自然に取り囲まれ、安逸に暮らすのを、広い世界の側からみて「島国根性」と名付けた。水と安全を只だと思っている安穏さを茹でガエルと誹る人もいた。
 だがお気楽に暮らすのを誹られては、人は何のために生きているのかさえ、疑いたくなる。日本に暮らす庶民大衆が茹でガエルになったことを誹るよりも、その暮らし方を護る為政者や政治機構の方を指弾するべきではないのか。のほほんと生きる庶民を非難するセンスこそが現代国際政治の混沌を示しているように思えてならないと、いま振り返って思う。
 しかし高度経済成長を遂げ、ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる国際的位置に身を置いた日本の政治家や財界団体や企業経営者が、相変わらず「島国根性」の根っこを身に染みこませていて日本的経営の優秀性に得意然とし、1990年代以降の構造改革に乗り出そうとしなかったことは、不思議と言えば不思議。身の習いといえば無意識の躰の習慣が露呈したと言えるのかもしれない。ここに目を留めたエッセイが、BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」であった。
 バブル崩壊後の、所謂「失われた三十年」の一つの要因が、この「日本人の不思議」にあるというヘイズ氏の直感は、私に言わせると当たらずとも遠からずに思える。それについては、この後折を見て一覧するが、問題はバブル時のような日本になった以上、島国根性に居直って「同調性の感情や共感性の感覚」でやっていくことは適わなくなった。それらがどれほど「他者」を意識させ、その後、異質性を組み込む関係作法として人々の身に染みこんだか。いや、それを怠ったからこそ、いまだに外国人を「ガイジン」扱いし、「池田町の七ヶ条」を発信するような所業を続けることになっているんじゃないか。取り敢えず、そう思っている。
 でも愚痴っているんじゃない。むしろ日本は今というかここ30年間、大きな転換に迫らる事態になっていると思う。それが実行できないのは、「日本人の不思議」に大いに関係がある。加えてコロナ禍で、それを切実に感じる。都会に人口が集中しすぎている。人口減少に直面している農村も、変わっていく必要がある。それには、うちらぁの人生、わいらぁの時代がつくりだした経済一本槍の思考様式を変えることも含めて、ちょ面している問題を直面する問題を、長期的な視野で以て一つひとつ取り上げて、考えていくときなのではないかと真に思う。(つづく)