mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

沖縄とワタシの当事者性

2023-05-27 09:14:37 | 日記
 映画『島守の塔』(監督・五十嵐匠、2022年)を観ました。太平洋戦争における沖縄戦を描く。本土から派遣されてきた県知事と警察部長という二人の官僚の動きを軸に、なすすべもなく逃げ惑う沖縄の人たちと本土決戦を長引かせることを意図した軍人の振る舞いを切り取っています。
 県民を守ることを使命と考えている官僚の姿も、しかし、今の時代となっては新鮮味を感じさせません。二人の官僚の「覚悟」だけが、いかにも腹切り時代の名残をとどめているが、これとて果たして、責任ある振る舞いかと考えてみると、わからない。
 なぜワカラナイというか。軍にせよ行政官僚にせよ、沖縄への統治的視線から一歩も抜け出していないからだ。もちろん、行政官僚がそうした視線から自由でないことは、今だって変わらない。だが「生き延びよ」というキーワードは、結局の所、本土から派遣された行政官僚が口にすることで、死して虜囚の辱めを受けずを金科玉条とする軍の方針と対照させてしか重みをもたせられない。沖縄のただの庶民には、抜け道がない。
    ひとつ鍵になることをみつけました。三線を弾き歌い踊るカチャーシーの意味するところです。喜びも悲しみも分かち合うという意味だと知事付きの若い地元の軍国女性が知事に解説するところです。戦場になっているこの場で、お酒を飲み、カチャーシーを歌うことは不謹慎と考えるこの助成に対し、本土から赴任したばかりの派遣知事が(こんなときだからこそ)飲み歌い踊ることをせめて許容しようと振る舞う場面です。
 カチャーシーが示すことは、生きとし生ける人がどんな場面においても最上のこととして保ち続ける指標です。それを今取り上げるとすれば、派遣官僚の「温かい愛線」を持ち上げて称賛することではなく、沖縄びとが自らの手でそれを実現する道筋を探ることではないか。そう切実に思えたのです。そこへの道が、この映画では開かれていません。「島守の塔」という鎮魂碑を建てて本土官僚の善意に期待するのは、とっくに裏切られているからです。何だこの映画監督も、結局統治的目線でしか沖縄を捉えていない。それが、私が新鮮味を感じない根拠でした。
 沖縄戦が、今は台湾へに対する中国の軍事統合を巡って現実の響きをたたえているからです。そのとき再び本土を守るために沖縄は本土政府の法的強制力によって、いいようにあしらわれています。沖縄自治政府も抵抗はするものの、とどのつまり(本土政府)国家の支配力によって身動きできない状態に追い込まれています。これをほぐして道筋を見つけるには、カチャーシーによる自立しかないと思いました。琉球の独立です。
 独立して、経済的にやっていけるのかも計算しなければなりませんが、戦場で踊るカチャーシーを考えれば、貧しさはなんとでもなると、戦中生まれ戦後育ちの私は考えています。それよちも先の「沖縄戦」で沖縄びとが学び取るべきことは、自分たちのことは自分たちが決定してカチャーシーに暮らしていくこと。それはもちろんのこと、全体主義的に政治経済を牛耳っている中国の傘下に入ることは意味しません。もちろん、日本国にとどまってもっと完璧な自治権を手に入れるという道筋もあるかもしれません。政治経済だけでなく、「新鮮な空気を吸う」ことのできる暮らしをベースに身に刻まれた文化を、日米中の綱引きの間で、したたかに保ち作り上げていく。そういう新しい時代を見る転機に立っていると思えたのです。
 本土に生まれ、本土に暮らす私にとって沖縄問題とは、より完璧な自治権を手に入れて暮らしていくことです。ただこちらには、飛鳥・奈良の頃より長く身に堆積してきたニッポンジンという柵(しがらみ)が幾重にも纏わりついています。それをほぐすには、たぶん「沖縄独立」以上の力が必要になると思います。そういう意味で、我が身の問題としてのオキナワは、ワタシの当事者性を起ち上げています。