mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人のコントロールが利くか利かないか

2017-12-16 16:24:12 | 日記
 
  昨日は「ささらほうさら」の月例会。msokさんが体調不良でお休み。そろそろこういうことが多くなる。後期高齢者になる年齢だ。平均寿命が延びたからと言って、個人寿命が延びるわけではない。月例会ごとに、「おお、今月も(無事に)会えましたな」というのが挨拶になる。ところがnmさんが町で出合った古い知り合いから耳にしたのは、

「kwrさんが亡くなったんですか?」
 という問いかけ。kwrさんは、ささらほうさらのメンバー。えっ?(先月逢ったけど、聞いてない)
「どういうこと?」
「新聞に出てましたよ」
「……」

 と話していたところへ、当のkwrさんが顔を出す。
「いや、生憎まだ生きてるよ」
 と笑いながら、会がはじまった。
 
 今月の講師はwksさん。お題は「α線、β線、γ線」。東日本大震災を機に浮上した「放射能」と「放射線」に関する「腑に落ちない残余感が残った」。それはどうも「放射能や原子力についての知識・情報・理解をあまり持たない中での把握、そういう中で放射能について言っていることの危うさも覚えた」ことから、もう一度しっかりとらえなおそうという試みというわけである。
 
 「原子構造」から話ははじまる。水素原子核とヘリウム原子核の模式図をみせて陽子と電子と中性子の位置関係を説明し、「不安定な原子核を含む物質が安定な原子核に変化する過程で放射線を出す」8種の放射性物質へとすすめる。中学生に聞かせるような話の展開は、中学2年生に話すように言葉を選びなさいというNHKのアナウンサー教育の第一歩を思い起こさせる。むろん中身のレベルを落とせという意味ではない。わかったつもりのことばもきちんと吟味しろという意味合いだと(私は)受け止めている。
 
 ウランやプルトニウム、ストロンチウム90といったものやヨウ素131やセシウム137というフクシマ以来馴染になった放射性物質のほかに、炭素14が年代測定に使われていたり、カリウム14が筋肉量を図るのに用いられたりしているというのも、そうなんだ、あれも放射性物質だったんだとあらためて知ることにもなった。
 
 wksさんは「東日本大震災合同調査報告書」を読みこんで、ところどころをピックアップしながら「みえない放射能と闘う」ことの困難さを解きほぐしていく。大雑把に言うと、フクシマはチェルノブイリの放出した放射性物質を大幅に超えていたという。話を聞きながら思い浮かんだのは、高村薫の『土の記』。そこに2011年の3・11のことが書かれていて、アメリカに住む娘や孫が「アメリカに来たらどうか。それがムツカシイなら、沖縄にでも避難しなさい」と主人公に呼び掛けたりする場面があり、欧米の人たちと日本に住む人たちの「危機感」の抱き方の違いを描いていた。実際に私の方にも、名古屋に住む息子から「しばらくこちらに避難しないか」と誘いがあったことや、外国人ジャーナリストや大使館員の家族の日本脱出がつづいたことなど、欧米系の方々や知的仕事に携わっていた方々は、たいへんビビッドに反応していたことを、思い出した。私はと言えば、フクシマから300kmほど離れているから大丈夫とタカをくくっていたが、「報告書」のピックアップされた記述を読むと、風向きや雨によってはとんでもない事態になっていたようだ。この欧米や知的な仕事に携わる人々と異なる(私の)「鈍さ」は何だろうと、そちらの方に(私の)関心は向いていた。直感的には「自然観」の違いが横たわっているように感じたが、どう関連するかまで思いは及ばなかった。
 
 そのせいだろうか、ふと気づくとwksさんの話はすでに2時間を過ぎており、ええっ、いつの間にこんなに時間が経ったんだと、私自身が夢想の中に浸りきっていたのかと心配したほどであった。
 
 講師の説明は「宇宙最初の元素」としての水素の誕生にはじまり、重水素の原子核が他の陽子と衝突してヘリウム3の原子核を生み出し、それらが衝突してヘリウム4 になると、次々と新たな元素が生み出されていくメカニズムに踏み込み、「恒星の重力崩壊」とか「ベータ崩壊」反応を起こしながら安定な原子核に落ち着いていくと話はつづくが、そのメカニズムの仔細は頭に入らない。
 
 講師は「放射線利用の基礎知識」として「環境汚染物の無害化」「半導体チップ形成」「素材の強度・弾力性の強化等」に放射線が使われているケースやコンピュータによる断層撮影装置という産業用CT、医療・衛生器具の殺菌・滅菌、非破壊検査に使われる事例をとりあげ、コントロールされた放射線の利用が、現在の高度消費社会を支えていることを示す。
 
 つまり、核爆発から緩やかに熱エネルギーを取り出そうとコントロールしている原子力発電は、その付随する産出物である放射能の始末までは技術がおいついていないということのようだ。十万年経てば放射能汚染物も無害化されると、どこかの原子力技術者が発表していたが、わがホモ・サピエンスが生物樹から枝分かれしてやっと十万年というのに、この先そこまで経れば無害化などというのは、夢まぼろしのごとき言説だと思った。十万年も経てば、放射能汚染物が無害化する前に、たぶん私たち人類が放射能に適応した姿かたちに変わってしまうとみる方が、まだ説得力がある。
 
 北朝鮮を取り巻く戦争勃発の危機が取り沙汰されていることからすると、原子力発電どころか、核攻撃によって東京が壊滅するかもしれないという「状況」よ、それによって引き起こされる事態の方が、リアリティをもって迫ってくる。「核」に手を付けてしまった人類の好奇心と技術の産物が、「現在の状況」であろう。とすると、その事態にどう適応するか、そう考えた方がいいのかもしれない。

ご苦労なことだ、わが身よ

2017-12-14 09:49:29 | 日記
 
 夜寝ている間は休んでいると思っているが、ただ単に体を横たえているだけ。体も頭も動き回っていると、思うようになった。近頃、睡眠時間が、やたらと長くなった。むろん6時間ほど寝たところで一度は目を覚ましてトイレに行ったりする。起きてもいいのだが、うつらうつらしていると、夢うつつで寝入ってしまい、気がつくと8時間とか9時間、ときには10時間も寝たことになっている。
 
 熟睡しているときにも、体の呼吸器や循環器が働いていることはいうまでもないが、消化器官もまた、昨夜のアルコールを分解したり水分を吸収したり排出したりしている気配を、如実に感じるようになった。つまり、起きているときの「酷使」を恢復して身の平衡を取り戻すかのように、せっせと身の内部で平衡調整作用を施しているのだ。この歳になると、それが(意識にだろうか、身の表層にだろうか)伝わってくる。
 
 若いころはきっと、身(の表層)が気づかぬままに、それらをやりこなす「自然」があったのだろう。ところが歳をとると、その作用処理一つひとつに、身そのものも「力(りき)」を入れなくてはならなくなった。おのずから「表層」に現れるようになった、ということか。
 
 頭の方もそうだ。いや頭が考えているのか、身の深層が感じているのかわからないが、夢もしっかり見る。何だか夢をみながらそれを操作しているんじゃないかと思うようなこともあるのに、起きてみるとハテ何の夢だったかと想い起せない。うつらうつらしているときは、寝る前に読んだ本に触発された「おもい」が揺蕩うように前頭葉を流れ、そのわが身の「おもい」を批判するような言説が取り交わされていたりする。誰と誰が取り交わしているのかわからないが、わが身がどこかでそれを、ウン、ナカナカイイコトヲイッテイルと得心している感触を得たりする。そしてこれも、目が覚めてみると、ハテなんだったかと「おもい」を凝らさなければ思い出せない始末でもある。
 
 寝ることは休むことというのは、意識世界からの表現である。じつは寝ている間も、身というか、頭も体も、動きを停止してひっそりしているわけではないようだ。むしろ、意識と別の身の深層世界が、これを好機としてせっせと、意識世界のやらかした後始末をしているのではないかと感じている。そうか、こういうのを動的平衡というのかと、自家撞着的平衡にニヤリとしている。歳をとり、身が心身ともに一つになって、感じとれるようになってきたのか。そして、目が覚めている間の意識世界と寝ている間の深層世界とがともに表層に浮上してきて、そのあげくに身と心が別れて魂が蒸発して彼岸へいくのかと思うような、日々の感触に心打たれている。
 
 いい事かどうかはわからない。思い出した時にあまり気色がいいとは言えない夢をみていることもある。昨日見たやつは、脚の裏の皮膚が、夏の日焼けした肌のように薄く剥けていく。指をかけ薄皮をぺろりと剥いている心地よさというか、面白さの感触もある。硬かった足の裏の踵の部分が薄皮をはがすとともにやわらかくなり、おおっ、これはいいぞと思うのに、いつしか厚く剥けてしまって段差が生まれ、それに爪をかけるとぼろりと踵がカケラになって落ちてしまうようなユメであった。わが深層が何を調整してこんな夢をみるのかわからないが、昨日の下見の脚の使い過ぎに警告を発しているのだろうかと、思うともなく考えている。ご苦労なことだ、わが身よ。

けっこう変化に富む九鬼山ルート

2017-12-13 20:12:45 | 日記
 
 地理院地図には、このルートが記載されていないので、下見に行ってきた。山の会の来週のコース。行ってよかった。私自身の、方向音痴かと思うようなエラーもあった。もしこのまんまで、皆さんを案内して歩いていたら、会を閉じるほどの顰蹙もの。
 
 変化に富んだ面白いルートなのだが、目標の九鬼山に到達するのに4時間もかかる。これでは、歩く気力が、すっかりへばってしまうかもしれない。逆に、下山した方から登ったら、2時間足らずで登頂する。それが最高峰。そこからアップダウンはあるが、今日私が歩きはじめた猿橋駅へ下るのではなく、大月駅へ、あるいは田野倉駅へ下るエスケープ・ルートがいくつも取れる。歩きながら、疲れ具合をみて、コースを変更するのもいいかもしれない。
 
 でも、今日一番よかったのは、富士山。最初に見たのは神楽山の分岐に立った時。樹間に見事な富士山が姿を見せている。神楽山ではまったく見えない。次に見たのは、御前山に着いた時。この山はルートから少し外れて登る。上ると屹立した岩場の頂上。樹々がない。そうして、富士山が見事に雪を頂いて、雲を寄せ付けていない、きれいな姿をさらりと見せている。いやこれはいい。来週「これをみることが出来たら、九鬼山は上れなくてもいい」と皆さんに言ってもらえるだろうか。次にみたのは、九鬼山の山頂。もう13時になっていたせいで、東側に雲が起ちあがり、でも、樹間にくっきりと美しい形がみえる。さらにそこから10分ほどのところの富士見平で、やはり樹間にみえる姿は、さらに雲をまとっていた。そのあとに見たのは、九鬼山の愛宕神社方面へ下っているときの木々の間に、山頂に雲をまとった富士山。ちょっと残念。最後に見たのは、すっかり下山して、禾生駅への国道を歩いていたとき。民家の屋根の端に、富士山の山頂部が雲と一緒にちらりとみえた。
 
 なんというか、富士山をみると、山に登った気になる。山梨県の人たちがそう思うかどうかは知らないが、関東の山を歩くと、ええっ、富士山どこ? と、ついつい姿を探す。そして見つけた時の、やったあという気持ちは、なぜか知らないが湧き起ってきている。体の自然である。
 
 今日のルートで、追い越したのは一組二人。大月から菊花山を経て九鬼山へ向かっていた。すれ違ったのは、9人。一組は、大月から菊花山を経てお前山の方へ向かっていた、年配男性の二人組。御前山の手前から大月へ下る道がある。あとは皆さん、禾生駅から九鬼山へ登り、大月か猿橋へ向かっている人たち。そうそう、最後の九鬼山山頂直下で、8人ほどのひとパーティとすれ違った(と思う)。上へあがるのか山頂から降りてきたところなのかわからないが、登山道を塞ぐように屯して、おしゃべりをしていた。「はい、ごめんよ。通ります」と声をかけて、退いてもらいながら、通過した。とても印象的に「不快な」一群であった。ま、こういう人たちもいるのだね。私の山の会の人たちが、出逢う人たちにこのように思われていなければいいのだが、それは、わからない。
 
 ともあれ、来週のコース変更は決まった。明日、皆さんに「直前案内」を出す。

廃業と解脱

2017-12-11 17:29:48 | 日記
 
 ミズ・グリーンからケイタイに電話があったと気づいたのは、後になってから。「お留守番」にメッセージが保留してあるというので、そちらに掛ける。
「あのね、ハマちゃんになんかあったんじゃないかって思うの。昨日も今日も、お店が閉まったままなのよ。」
 昔の同級生・ハマの異変を知らせている。ハマは浜松町でタバコと酒の小売販売店を長年やっている。私同様、後期高齢者。身体がゆうことをきかないと、会うたびにこぼしていた。この夏には救急車で病院に運び込まれ、ウィルス性大腸炎の診断を受け四日間の入院を余儀なくされた。そのとき体重が四一キロに減ったという。これはたいへんと、できるだけ食べるようにしていると言ってはいたが、すっかり骨皮筋衛門になってしまっていたから、元の級友たちは気遣っている。
 ミズ・グリーンに私の方から電話をする。近くを通りかかるごとにハマちゃんの店に立ち寄るのが、私たち同窓生の習わしのようになっていた。だからハマは、いわば東京の連絡センターの役を果たしてきた。彼女も習性のように立ち寄ったらしい。だが続けて二日、シャッターは閉まったまま。ハマの奥さん・ミコちゃんに電話を入れた。
「食べ物がのどを通らないって、食べようとしないの。もう三日にもなるわ。医者に行けって言っても、行っても同じだよと投げやりなのよ。」
 と困り果てている様子だとか。ミコちゃんも同窓生だ。
「あいつ、医者嫌いやからな。わかった、明日は予定が入っているからだめだけど、明後日、行ってみるわ」
 そう応えながら、これはひょっとすると、ハマちゃんとの訣れになるかもしれないと思っていた。
 でも様子を聞いておこうと電話をする。だが電話に出た声は、ハマちゃんに似ているが明らかに若い。あっ、息子んとこに掛かったと、自分の間違いに気づく。ハマちゃんは長年住んでいたマンションが古くなって建てなおしたのだが、出来上がった家を息子に譲り、自分たちはお台場の高層マンションに住むようにしていた。その古い電話番号を、私はケイタイに入れたまんまにしていたのだ。だが、息子に聞くのも悪くない。
「ハマちゃんが体調崩しているって聞いたんだけど、様子はわかる?」
「ハイ、医者にも見せたんですが、疲れが出たんだろうってことで、入院はしてないんです。」
「そうか、ありがとう。」
 いつものこと、それほど心配していない、という気配であった。息子って、父親に対してこういうんだよねと私の心裡のどこかで、親子のかかわりに頷いている。
 私も、父親が病に伏しているとは思いもしなかった三十三年前のことを想い起す。自分が家庭を持ち子どもを育てているときの父親というのは、自己像と言ってもいい。丈夫で自律的、家庭よりは仕事や社会的なことに夢中だ。カミサンに気づかいはするが、子育ては手伝う程度。同じように仕事を持っていたカミサンが良くやっていたなと思うようになったのは、子どもがすっかり成人したのちであった。つまり父親というのは、息子とはほぼ対等であり身近な他人。つまり一番身近な市民同然なのだ。だから自分が退職して年を感じるようになってから、初めて高齢の親父のことを想い起すことになったが、むろんその時すでに父親は鬼籍に入っていた。
 二日後の日曜日、家を出る前にハマちゃんのお台場の住まいに電話を入れた。ミコちゃんが出た。これから伺おうと思っていると話す。
「うん、いま寝てる。ほんとうはな、入院して点滴でもしてもろうた方がええんじゃないかって思うんじゃけど、行かんでええって言うんよ。これから来るん? ええよ。ありがとう。」
 と、もうすっかり亭主のことは、好きにさせるしかないとあきらめているような口調であった。
 新橋からゆりかもめに乗り換えてお台場へ向かう。二年前になろうか、ハマちゃんが入居したときに一度「新築祝い」と称して、他の同窓生ら何人かと一緒に訪ねたことがあった。ゆりかもめは、五年前まで勤めていた仕事先が有明にあって、使っていた。私などの感覚からすると、近未来的な人工都市と呼びたいが、もはや未来ではなくとっくに現実化している。ドバイの街を上空からみたとき、これぞ完璧な人口都市と思ったものだが、考えてみると、ゆりかもめの経路は砂漠が海に代わったようなものだ。武蔵野の森に囲まれた三鷹にあった勤務場所が有明に代わって、そこへ初めて行ったときは、海の上をぐるりと回りながら人工島へと向かう無人運転の電車と、無機質でいてかたちの特異さを競うような高層建築の林立に、圧倒されながらも、絶対に折り合えそうにない違和感を感じていた。ただこのときは週に一回、ひと仕事片づけて新橋で降りてからハマちゃんの店に行き、彼と近場の食事処で一杯やりながら話をするのが、愉しみであった。
 お台場海浜公園を降りてからの地理的感触を身体が覚えていた。道路をまたぐ回廊を越えると一階下にスーパーマーケットがある。そこで二人分のお昼と野菜ジュースとヨーグルトを買い、さらにひと階降りると道路に出る。交差点を一つ越えて左へ向かうと何棟もの高層マンションの敷地に入る。おおむね、憶えていた。入口で部屋番号を押すと、
「いま開けるわ」
 とミコちゃんの声がする。外へ出ようとする人、今帰ってきた母子連れが開いたドアから一緒に出入りする。エレベータは速い。降りて狭く押しつぶされそうな廊下をくるくると回り込んでハマちゃんの家にたどり着く。
 ドアを入ってすぐに感じたのは、軽いたばこのにおいと暑いほどの暖房。
「タバコ吸ってんだ」
「におう?」
「煙草屋まで吸わなくなったら、商売あがったりだよね」
 先月ハマちゃんにあったとき彼は、まっすぐなパイプをふかしていた。電子タバコというらしい。煙様のものも出ていたが、聞くと、ただの水蒸気。紙巻きたばこに代わって、近ごろ流行りはじめたという。だからうちの中の煙草臭は、それ以前に吸っていた紙巻きたばこのときのもののようだ。
 ハマちゃんはリビングのテーブルに向かって座っていた。伸び放題のひげが病み上がりの様子を湛えている。背中のガラス戸の向こうの陽ざしが、カーテン越しだのにまぶしい。その向こうに東京湾の海が見え、さらにその遠景に二頭のゴジラを思わせる骨組みの橋が架かっている。
「大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫だよ。明日から仕事に出ようと思ってる。」
「食べられないっていうから、心配したよ。」
「食べてもね、受け付けないんだ、体が……。」
「すぐに吐いてしまうんよ」
 と、お茶を淹れながら、ミコちゃんが口を挟む。
「医者に診てもらった?」
「うん、診せたらね、やっぱり胃腸炎だっていうのよ。夏はウィルス性胃腸炎だったから、それが慢性胃腸炎になったとでもいうのかねえ。仕事をしてたら、ほんに突然よ、ふにゃふにゃと全身から力が抜けて、立っても座ってもいられなくなった。」
 と、力が抜けたようような小声でぼそぼそと話す。
「ほんでな。救急車を呼んで運んでもらったんよ。」
 とミコちゃん。
「先月のお伊勢参りがきつかったのだろうか。少しお酒も飲んでたからね。」
「いんや、あのあとの週は、ふだんより元気だった。悪かったのは今週になってから。四日よ。」
 と、ハマちゃんがぽつりぽつりと言葉を繰り出す。
「医者は何かあったら救急外来で来てくださいといって、入院をすすめなかった。病室が空いてなかったのかもしれないね。」
 そう言って彼は、明日から仕事に出ようと思っていると力なく言う。ミコちゃんは、手の施しようがないという顔つきでハマちゃんの顔をみている。私の顔をみて、
「いつ辞めてもええんよ、私は。でもな、やめて寝込んだらそれっきりになるんやないかと思うから、行こうと思うとる間は、行ったほうがええかもしれんしなあ。」
 とため息をつく。
 彼らの暮らしそのものが行き詰っているようには見えない。もう五年も前になるが、このお店は七十五歳くらいで切り上げると話していた。世紀が変わったころから開発が進んだのが新橋の山手線の南側、汐留地区。超高層の商業ビルが立ち並び、次いで超高層マンションが林立するようになった。それに伴って山手線の北側にある、新橋から彼の店のある浜松町にかけての、背の低い古い町並みも、再開発の話しが交わされるようになった。そうして2012年を過ぎようとしたころ、大規模開発のために古いビルを取り壊し、周辺の商業住宅地を巻き込んで再開発をする、そのため、ハマちゃんの店も近々、取り壊されて新しいビルに吸収されることになる、と近隣の商店会の集まりでも説明があった。ハマちゃんはそれを機に店をたたもうと考えていた。その説明会の予定が2017年の3月だったのだが、いつのまにかその話は立ち消えとなった。
「どうして?」
「東日本大震災かなあ、東京オリンピックかなあ。あれがあって、大手の建設会社はそちらの方で手いっぱいになった。それにさ、所有権が入り組んでいるこういう古い地区の大規模開発ってのはさ、大手のデベロッパーに加えて、その地区のやり手の世話役が必要なんだよ。ほらっ、なんとかのドンって言われるようなヤツね。それが亡くなってしまってね。とりあえず、東京オリンピックが終わってから・・ってことになっちゃったんだよ」
 と、店をたたむ話が先送りになったワケを推察する。つまり彼は、仕事を終わりにするきっかけを失ったというわけだ。そうしてずるずるとつづけている、という。
「でもそれは逆に、いつ止めてもいいってことじゃない?」
「そうなんよ、だからやめらんないんよ。倒れるまでやらなくちゃってわけ。」
 と、苦笑いをする。
「廃業ってね、人が死ぬようなもんでね、自分で決めるってことじゃないみたい。」
 とつづけるハマちゃんの顔は、悲壮というのではなく、恬淡とした境地に達した達観とでもいおうか、余計な贅肉もこだわりもそぎ落として、身軽になった心地よさを感じさせるような感触が漂っている。ふと、ラホール美術館だったかに所蔵されている断食ブッダ像を想い起した。たいていは苦行像と訳されているが、私はむしろ、苦行から解放された仏陀のイメージが強く印象に残る。密かに私は「解脱仏陀」として好ましく思っている。
 ハマちゃんも、解脱したか。そういうと、きっと、いやいや単なる行き倒れですよと笑い飛ばすに違いない。そういう力の抜けた彼と、ほんの一時間ばかり話して、暖かい陽ざしのなかを帰ってきた。

人生の区切りを思い起こさせる「集い」

2017-12-10 09:51:20 | 日記
 
 師走になると人と会う機会が増える。つい何年か前まで「忘年会」と呼んだのは、まだ若かったのだと思う。つまり、「忘年会」というのは、日ごろ顔を突き合わせている人たちが、節季の区切りをつけるために、あらためて「集う」儀式だった。だが歳をとると、会う機会を持つために、年に一回か二回「集う」。半年ぶりの人、一年ぶりの人、時には9年ぶりの人というのにも会う。
 
 昨日、その9年ぶりという山の仲間・Mさんに会った。彼もすでに定年を迎え、でも延長の仕事をして二年目、何と私が退職した仕事現場に、今いるという。おのずから山の話になる。
 
「昔Oさんと一緒のときに、山岳部を連れてどこの山に行ったか覚えていますか」
 
 と、突然に言う。Oさんというのは、私の仕事現場にいた、若い山のベテラン。彼は転勤してきて、私の現場にいたKさんと結婚し(同一勤務場所にさせないという方針に従って)翌年配転になった。だから私とは、一年だけ一緒だった。山を通じて、それ以前より私はOさんを知っていたし、それを問うたMさんを知ったのも、Oさんを介してであった。でも、Oさんと一緒のときというと、37年も昔になる。
 
 「いえね、あなたがたと山を下山したところで会ったんですよ。覚えてますか」
 
 とっさには思い出せない、と思ったが、でもすぐに、そうだ、彼とは仙丈岳を登り野呂川の両股に降り、今度は前白根沢沿いをたどって北岳に登るルートをとった。あの沢沿いのへつりと最後の岩稜が思い浮かんだ。当初、あの厳しいルートを山岳部員を連れて登ることに私は不安をもっていたが、Oさんが一緒だということですっかり安心して歩いたことが胸中に甦った。その、想起したことに、私自身が驚いていた。覚えていたんだ、と。だが北岳からどこへ降りたか、やはり忘れている。
 
「ひょっとして奈良田で?」
「そう奈良田」
 
 Mさんは笑う。そうか、あのとき奇遇だねとか言って言葉を交わしていたのはMさんであったか。私にとって奈良田の印象は、20年前。(たぶん)仕事ですっかりくたびれ果てていたのに山に向かい、その最終日、農鳥岳からの下りで、山岳部員より先に私がへばってしまった。そのときは、いまもOさんと一緒に埼玉の登山部を率いているベテランのTさんが同行していて、彼が私の荷をかついで一時間ばかり助けてくれたおかげで、なんとか奈良田に降りつくことができた。その印象が強いから、すっかりOさんと一緒に歩いた奈良田の印象が蒸発してしまっていた。
 
 記憶というのは、変というか、面白いものだ。人をきっかけにした想起域、自身の不安とか疲労困憊するといった特徴的な出来事をきっかけにして、引き出すようになっているのだ。その印象の強さが、前の印象の記憶を覆ってしまって、想い起せないということにもなっていると言えそうだ。
 
 そのOさんもTさんも、来年とか再来年には還暦を迎えるという。私が後期高齢者になっているというのも、無理からぬ話。節季の区切りばかりでなく、人生の区切りを思い起こさせる「集い」であった。