mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

小春日和の青梅丘陵山歩

2017-12-08 07:15:53 | 日記
 今日(12/6)はもっと冷え込むとTVは言っていたが、それほどでもないなと思いながら、通勤ラッシュの人たちに紛れながら電車に乗り込む。抜けるような青空。立川で青梅線に乗り換えても、乗客の混雑は変わらない。関東平野の西の端へ向かう人たちがこんなに多いというのは、驚きだ。私は本を読んでいたから気づかなかったが、あとで聞くと、富士山がきれいに見えていたそうだ。
 
 青梅で奥多摩行に乗り換える。さすがに人の数はぐ~んと少なくなった。一本あとの電車から乗り込んできたsさんが立川でほかの方々3人とはぐれたと気にしている。次の電車で乗ってきたaさんは、その3人に会わなかったという。sさんは発車間際までその人たちが乗ったろうかと気遣っている。電車は出てしまった。先に来ていたoさんが電車の先頭車両の方へ探しに行き、戻ってきて「4人乗ってる」と話す。これで全員。今日は、軍畑駅から青梅丘陵の稜線を歩いて青梅駅までのハイキング。mrさんをチーフリーダーとする日和見山歩だ。
 
 ところが、駅を降りてみると一緒に乗ったはずのotさんがいない。荷物だけは座席に置いてあったから持って降りているが、彼が降りてこない。電車が青梅駅を発車してから、立川駅で一緒であったsさんが乗っているか見に行って、そのまんま私と話し込んでいると思っていたらしい。こりゃ神隠しだねと笑うが、笑い事じゃないとsさんは悲痛な顔をしている。たぶん、外へ出たときにドアが閉まって締め出されたんだろう。次の電車は50分あと。いいよ、私が荷物の番をして彼と一緒に後を追うから、皆さんはチーフリーダーのsさんと先行してくれと話していたら、タクシーが一台、す~っとやってきて目の前にとまる。「あっ、来た」とどなたかが声を出す。タクシーからotさんが降りてきた。青梅駅でsさんが乗っているかと外へ出たとたんにドアがす~っと閉まってしまい、締め出されたという。仕方なく外へ出てタクシーを拾って追いかけたと、笑う。いや良かった。これで一緒に歩ける、と出発。9時10分。
 
 30分足らず舗装路を歩いて榎峠に着く。標高310m。冷えていた体も温まり、一枚脱いで身支度を整え、いよいよ青梅丘陵へ踏み込む。リーダーのsさんは、最高齢のotさんを先頭に立たせる。「あなたがペースメーカーよ。はい、先へ行って」と有無を言わせない。いつもならotさんにkwrさんがつづいてOKコンビとmrさんは呼んで、彼らについて歩くとへばらないと歓迎している。だが今日は、kwrさんは所用があって参加していない。標高495mの雷電山までの、杉木立の間の急な上りだが、皆さんは畑の話をしたりして楽勝ムードだ。10時、一休みする。
 そのあとまた階段の登りがあり、15分ほどで小高い雷電山に着く。過ぎに囲まれ見晴らしは利かない。東からの陽ざしがまぶしいなかを、辛垣山445mに向かう。落ち葉が散り敷いて心地よい平坦な稜線。辛垣山の先に「辛垣城跡登り口(急坂)」という表示がある。そちらへ踏み込む。一向に急坂にならない。青梅市教育委員会の「辛垣城跡」の説明看板が立つ。昭和30年に指定したそうだ。ここではじめて辛垣を「からかい」と読むことがわかる。垣を「かい」と読むのは「垣間見る」の例もあるから不思議ではないが、この城がたてられた中世の「からかい」という言葉がもつ意味は、いまとは違っていたのであろう。辛はかろうじてという使い方もある。辛苦を乗り越えて築造されたという心もちがこもっているのであろうか。あるいは「からかう」という言葉が平安のころには「押したり返したりどちらとも決しない状態で争う」という意味で使われていたそうだから、「争う(に足る)城」という思いを込めたのであろうか。この城を築造した中世の三田氏が北条氏に追われて埼玉の岩槻城に逃げ落ちたとあって、急に親しみがわく。そう言えばここは都県境のすぐ近く。もうひと山越えれば飯能市だ。少しばかりごつごつした岩を越えると高台と分かる。その向こうは、なるほど城をつくるにふさわしい急斜面が下っている。
 辛垣城跡を過ぎてすぐに、小さな、標高440m余のピークで「少し早いがここでお昼にします」とmrさんが声をかける。11時5分。彼女は1週間前に下見をしたが、そのときお昼をとるのに適当な場所がないことに気づいて、ここに定めたようであった。「下見のときは誰にも会わないので、怖かった」とmrさん。「何が怖かったの? 人? 獣? それとも道に迷うこと?」と尋ねる。「みんな。その全部よ」とmrさん。単独行の面白さは(たぶん)その「恐さ」にあると私は思っている。ただ人に出逢う怖さというのを(男の)私は知らない。女の人はいつもそういうたぐいの怖さにおびえていたというか、用心していたのかもしれない。ここは、ただの小さなピーク、ご正道は巻道がある。だが、私たちがお昼にしているのをみて、ここまで登ってくる人もいた。「ここは何ですか」「昼飯山」と応えて、笑いながらご正道へと下って行った。
 11時40分、出発。30分足らずで三方山454mに着く。三角点がある。ここを北の方へ回り込んで稜線はつづく。北側が開け、向かいの山肌の針葉樹林に色づいた茶色の黄葉が落ち着いて見え、手前のススキの白に生える。遠方の大仁田山や多峯主山の先に飯能の街が少し望める。イロハモミジの落ち葉が黄色く目を惹く。展望の開ける地点で、お昼の私たちを追いこしていった三人組が昼食をとっている。そこから、遠方の雲に身を隠すようにしている男体山がうっすらと見える。
 この青梅丘陵は、奥多摩線沿線のいろんな駅に下るルートがある。その分岐をみながら、石神前を過ぎた、日向和田の方だね、宮ノ平の分岐だよと表示をみながら歩く。宮ノ平の分岐が1時前。13時5分には矢倉台の東屋のところにいた。ここまで来ると黄葉が盛りにみえる。眼下に青梅の街が広がる。道が急に広くなる。「枝間の富士→」という表示がある。残念ながら、ず~っと遠方には雲が張り出して富士山は姿を見せていない。ここで「今朝はよく見えたのに」と聞いた。枯れ枝に薄い赤色の実がたくさん残っている。「まゆみ」と下の方の幹に名前が掛けられている。ノハラアザミが色を薄く残して冬薊という風情をみせている。落ち葉が散り敷いて快適な道だ。第一休憩所では東の方にうっすらと筑波山が姿を見せる。向かいの山肌の黄葉が陽ざしを受けてひときわ輝く。
 やがて舗装路に出合い、鉄道公園と地図にはあるが列車も電車も見えない。sさんが崖をのぞき込んで「お墓の方へ行ってもいいですかね」というから、「いずれ行く道だけど、急ぐこともないでしょうよ」と応えて何の冗談かと思っていたら、ショートカットする道の下にお墓があった。前を歩いていたotさんが後ろに下がってリー%

なにがつまらないのか

2017-12-06 19:52:31 | 日記
 
 朝(12/5)6時前外に出る用があり、空を見上げると向かいの建物の上に丸い月がかかっていた。暦で調べてみると12/4の「月齢は15.6」12/5は「16.6」とあるから、12/5の早朝のそれは16日の月とでもいえようか。右下の方が心もち凹んでいるような少し白味を帯びた月には、《月落ち烏啼いて 霜天に満つ》ごとき師走の風情が漂っていた。寒かった。
 
 歌舞伎座へ行った。十二月大歌舞伎は三部構成。夜の部は長谷川伸の「瞼の母」と夢枕獏の「楊貴妃」。「瞼の母」の番場の忠太郎と「楊貴妃」の方士をいずれも市川中車が演じるから、夜の部は面白そうであったが、夜の九時ころまで付き合うのが、だいぶしんどくなっている。そういうわけで昼の部に足を運んだ。「らくだ」と「蘭平物狂」の二幕。前者は落語「らくだ」の翻案もの。後者は定型化された演し物。前者が面白かった。
 
 「らくだ」に出演するのは6人いたが、もっぱら2人で演じる。死者らくだの友人というやたけたの熊五郎を片岡愛之助、紙屑屋久六を市川中車。ことに演じながら、酒を飲むにつれ様相が変わってくる市川中車は見事であった。じつは双眼鏡をオペラグラス代わりにもっていっていた。それで覗くと、いや見事に面相まで変わっていく。二人とも、いつもはTVで観ているから、そう感じるのかもしれないが、「らくだ」においては歌舞伎らしい発声法をやっているように思えない。むろん、声は十分通る。舞台の生でありながら、マイクで拾ったTVドラマの声と変わらない。
 
 しかも死んだラクダを背負ったりカンカン踊りをやったりする様は、落語で聞いていた様子を越えて、いかにもそれらしい気配を湛えて舞台としての命を吹き込んでいた。いうまでもなく死者のらくだの宇之助を演じた片岡亀蔵の、脱力してあっちへこっちへと体が投げ出されるような動きもあるのだが、いや傑作であった。こういう喜劇的なパフォーマンスの前に、「蘭平物狂」の定型化された動きは、敵うはずもなかった。これはみている私の目がお粗末だからなのだろうか。もはやこの定型では気持ちを引きつけることはできなくなっているのではないか。この両者の醸し出す気分の乖離は、何によるのだろうと私は思った。
 
 歌舞伎も、古いものを古いままに演じている分には、それとして価値を持つのかもしれない。江戸のころにこのような演出で行っていたろうかと思われる殺陣の場面は、なかなか見ごたえのある力技を見せていた。でも今風のアクションを見なれているものには、「昔日の定型」として慈しむ視線が、好意的な下駄をはかせているように思えてならない。保護的文化財として歌舞伎を観るというのでは、とても「らくだ」の喜劇的パフォーマンスに並ぶことはできないと、強く感じた。
 
 三部構成の毎月興業はたいへんなことであろう。「らくだ」が仕込まれていたということは、すでに「定型」から離脱する道を歩み始めているといえるが、でも「定型」をどうするのか。「かぶく」要素をすっかり捨てて「定型」が定型として護られるのだったら、つまらないなあと心裡のどこかがつぶやいている。

漂流する小舟に乗っているような気分

2017-12-04 10:15:53 | 日記
 
 ここんところ晴れがつづく。いよいよ関東地方に乾季が到来したようだ。寒いことは寒い。だが陽ざしが当たり、気持ちがいい。ぶらぶらと歩いて買い物に行き、図書館へ本を返す。行くときは陽の当たる処をたどっているのに、帰るときには日影を選んで歩いている。土日とあって、親子連れが通りににぎわい、若い人が連れ立ってどこかへ出かけている。
 
 運動着の中学生がぞろぞろとすれ違う。何か部活動の練習試合でもあったのだろうか。短パンに半袖とかジャージーの上を羽織っていたりする。若いってのはそれだけ発熱量が多いのだろうか。それとも彼らの身体は、ヨーロッパ人みたいになってきつつあるのだろうか。ヨーロッパの山岳ガイドは、日本の山屋と違ってものすごいパワーだ。半袖半ズボンは当たり前、案内される私たちが高齢者であるのに、その歩き方が遅いと言って置いてけぼりを食らわせる。体格や年齢、力量の違いを斟酌しない。とんでもないガイドたち(と私は思っている)。日本の中学生も、長年の食生活の変化によって変わってきているのかもしれない。少し動くと暑くって仕方がないのか。羨ましい。
 
 その程度なのだ、年寄りの休日というのは。我が身を振り返ってみると、な~んにもない。一日の三分の一以上を寝て過ごし、新聞や本を読みパソコンにむかってよしなしごとを書きつけ、たいていはぼーっとして過ごす。お昼になるとTVをつけてうどんを湯掻く。TVの画面は日馬富士と北朝鮮のことばかり。日馬富士のことに至っては、彼の動静を絵に収めようと報道陣が出張ってカメラを向けマイクを差し出して記者が何やら大声で問いかけている。そんなことをして何になるのだと、多数の報道陣の若い人たちのエネルギーが放散される社会的意味を考えていたりする。聞いてみたことはないがたぶん、需要があるからこういうことをするのだと心中思っているのであろう。むろんプロデューサーやディレクターは、その画面を観たがるTV視聴者の「需要」をイメージしているのであろうが、観ている視聴者としては(またかよ)と思ってチャンネルを変える。だが、そこでも同じようなことをしているから、とどのつまりスウィッチを切る。TVというのは、放送者が勝手に想像した視聴者の欲望にウケるように番組を作成したり構成する。でもそれは、放送者の(欲望の)イメージに過ぎない。視聴者はその(欲望)を茫茫と受け容れている。
 
 それに比べるとTVドラマはネタが違っているからまだよいほうか。でも観ていると、ドラマツルギーというのか、感動を誘う手管が同じに思えてくる。苦境に立ち、これはもうダメかと思わせておいて、えっ、そんな手があったのと驚かせて勝利の図式に持ち込むというドラマは、これでもかという感動という名の欲望の繰り返し。繰り返しが悪いというのではなく、繰り返しても少しも満腹感に至らない欲望の連続的不満足の持続。欲望の肥大化と社会学者は言うのであろうが、「肥大」にはなっていない。繰り返されていると、感得する欲望がだんだん貧相に思えてくる。これは自分が貧相になることじゃないか。
 
 興味関心もものごとに対する意欲も欲望のうちと思っているからいうのだが、外からの情報や刺激を受け取っているだけでは、欲望は充たされない。なぜそれに心揺さぶられ、この身が反応しているのかと問うて、外からの情報や刺激を吟味し消化吸収してのちにはじめて、欲望は次のステージに上がるのではないか。一人の人の身の裡では、たぶんそれが精一杯。それ以上の欲望の次元は、もっと多数の社会的次元で考えなければ考察できないことのように思える。ちょうど、ハチがハチの巣をつくり、アリがアリ塚をつくるように、一匹のハチやアリが行っている振舞いとその社会集団がかたちづくるものとは、別様の構成論理を為している。だから、それぞれの立場における人が(これと考えて)振る舞うことが社会集団全体の(それがいいと)考えることとは齟齬することは、長い目で見たら当然なことだ。TVのドラマツルギーも情報の提供も、人類史の壮大な「ムダ」にかけている姿かもしれない。でも、一匹のハチやアリの振る舞いなくしてハチの巣もアリ塚も形を成さないことを思えば、私たちがつくる社会の好ましい形を想定してその社会をかたちづくろうとすることは、その失敗をふくめて、結局長い人類史が審判することになるのではなかろうか。「好ましい社会」というのが、どのようなものかも、ひとつに集約することは難しいのに、選び取って突き進む方策は、とりあえず(今の国民国家が支配的な単位としては)ひとつしかない。
 
 とすると、今の世界のさまざまな径庭をたどってきた社会をみて私たちがまず考えるべきことは、好ましい社会とはどのようなものかをイメージし、できるだけ真摯にそのイメージを(異論をふくめて)共有することしかない。当面の北朝鮮の脅威にばかりとらわれて、人類史的な審判に耐えうる社会のイメージを描き損ねては、舵を持たずに海の流れに漂流する小舟に乗っているような気分になる。
 
 ソファに横たわって本を読むうちにいつしかうとうととし、そんなことが頭に浮かんだ。

ひぐらしの十年

2017-12-01 14:30:52 | 日記
 
 今朝目覚める前の半醒半睡のなかで、師走になったという時節の移ろう感触とともに、そうだ、ブログもこれで十年経ったという時の移ろいが浮かんできた。ブログのはじまりのころからのテキストのファイルを開いていみると、冒頭に二首の歌が記してあった。
 
   あひみてののちのこころにくらぶれば むかしはものをおもはざりけり
   しのぶれどいろにでにけりわがこひは ものやおもふとひとのとふまで
 
  この二首を記したのは、たぶん、五年ほど経ってからではなかったろうか。ブログを書くということをつづけていると、わたしはなぜ、ものごとを記すのかという自問が、つねにつきまとう。そのときふと胸中に浮かんだのが、上記の二首。同じ時ではない。ぷくりぷくりと湧き上がってきたものを拾ったような感じだ。
 
 ブログをはじめようと思ったのは、自分のしていることを突き放してみるためではあった。メモのようなものだ。じつは、定年で仕事を退職する60歳のときに、「五年日記」というのを買って、つけることにした。「日記」というのは幼いころから苦手で、いつも三日坊主であった。母親が正月になると「博文館日記」を買い込んできて、息子たちに手渡した。受け取ってつけ始めてはみるが、文字通り三日まで、あとは真っ白なまんまに、捨て置かれていたと思う。どうなったのか気にしたこともなかった。だが仕事を離れて毎日が日曜日のようになってみると、わが身が揮発してしまうような気がした。いやじつは、退職する前にそうした予感がわたしを襲い、「五年日記」を買いこんできたのだ。
 
 で、どうであったか。日々の書き込む欄の大きさは、たぶんこのブログの2,3行程度であろう。それこそメモ風に、何をした、どこへ行った。誰から通信があった、どこで話したと、とりとめもないことを書きつけている。旅に出たときは、帰ってきてから、三日分とか一週間分とか、ときには半月分ほどをまとめて書き込んだように記憶している。そうして一年経ってみると、去年の動静を読み返しながら、今年のそれを書き込む。だからどうってことはない。去年のその時点で抱いた感懐を想起できるかというと、すっかり忘れている。むしろ、そのことに驚いていた。でも、それほどの努力をすることもなく、五年日記をつけ終わった。
 
 それはしかし、じぶんの抱懐した思いを率直に書くことをしていない。行動のメモ。本を読んだとか山へ行ったとか誰それと酒を飲んだという事実の記録。それだけ。むろんそれだけでも、後日読み返してみると何某かの思いをもって右往左往していたことはわかる。ま、そんなものよ人生は、と言えば何だか達観したようにみえるが、生来の無精が、のんべんだらりと寝そべっているだけだ。
 
 文章を書かなかったかと言えば、そうではない。一冊の本の編集をしたし、カルチャーセンターの講師を引き受けて山のガイドも7年間おこなった。大学の非常勤講師を頼まれて、これも70歳まで面白く勤めさせてもらった。そのときには毎週何十ページというプリントを作成してやりとりをした後で、学生さんから返ってきた「リアクションペーパー」にコメントを加え、次の週の「場外乱闘」と称してプリントにしてやりとりもした。これはこれで面白かったし、自身の、本を読んだりものを考えたりするインセンティヴになった。
 
 その間に思ったのだが、わたしはどうも、おしゃべりではあるが口舌の輩ではない。文筆の、エクリチュールの軽輩だと思い当たった。と言って作家気取りでものするほどの力もない。だが、書くことによってじぶんの新しい局面と出逢うってことがある。書いているうちに、これまで気づかなかったじぶんに対面している。そうか、人ってこんなふうに勝手に変われるし、変わっているし、変わることに気づくこともできるんだと気づいたってわけ。
 
 五年経って。それには、事実のメモだけではだめだ。本を読んでも、一つひとつ自分が抱いた感懐を、気づいた「せかい」のことや「じぶん」のことを書き落とさなければ、それはそのまんまどこかに蒸発してしまう。そう思って、65歳(つまり、前期高齢者)になったとき、ブログをはじめようと考えた次第。でも初めのうちは、事実のメモ程度にしていたのだが、だんだんそれも変わってきて、いまはご覧の通りの、ゴミのようなエクリチュールのおしゃべりになっている。
 
 でもみなさんは、十年さかのぼって読むことができない。2014年の5月で私のホームページを扱っていたプロバイダがブログの運営を中止したために、現在のところに引っ越さなければならなくなったのだ。そういうわけで、3年半程度の分しかご覧いただけないが、ま、古いのを読んで面白く思うのは、本人だけ。物書きというほどではないが、エクリチュールの輩というのは、いくらかナルシズムの気があるのかもしれないね。ほんとうは人に読んでもらって、面白かったと言ってもらいたいのに、そう口にするのは面映ゆい。とどのつまりは、わが姿の一部を外化したものに目を通して、ふむふむなるほど、悪くはないなと自賛したいのかもしれない。
 
 むかしはものをおもはざりけり
 
 これはいつも思い当たる自戒であり、自尊であります。これからもお付き合いくださいますよう。