mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無意識との闘いか

2024-07-01 10:45:41 | 日記
 小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)を読んでいて、この書に記されている(著者の)葛藤の起点に感じたこだわりが、尾を引いている。でもそれを言葉にするには、経験したワタシの「躊躇い」に触れなければならない。性を語るということ自体にワタシが感じている「暴力性」に突き当たっているような感触である。
 小松原織香は博士号をもつ哲学者であり、「修復的司法」の研究者。「性犯罪」と呼ばず、「性暴力」という語をつかう。
《「性暴力」は法の規定に依らず、暴力を受けた被害者の苦しみや哀しみに焦点を当てる語である》
 と規定する。言うならば「性犯罪」は法的言語、「性暴力」は生活言語。「司法の枠組みでの当事者の証言の真偽とは切り離して、研究を進める」起点のスタンスを示している。これは、市井の老爺であるワタシが恒に心している立脚点と重なって、好感を持つ。
 そして、こう加える。
《私の研究は被害の告発を目指していないことがある》
 そう、「哲学的アプローチ」というのは、コトのオコリの根源へ向かうもの。とどのつまり、ジブンがなぜそう感じ、考え、向き合うのかをたどっていく。だからここで終わり、ということがない。一段落付けることはできるが、コトをいつまでも引きずって仕舞うことになる。
 この著者は、自身の「性暴力」の衝撃的体験を起点に「当事者性」としている。それを思い起こすごとに、激しいフラッシュバックに襲われ、身が震える。それを思い起こすときとか語るときに、自分は「嘘をついているのではないか」というおもいが、つきまとうという。
 そう、デキゴトそれ自体をみることはできない。では、我が身に起こったことを思い起こして、何が、なぜ、どう起こったかを精確に再現することができるかというと、それもできない。意識し言葉にしようとしたとき、それが身の裡の感触とズレていると思うことはしばしば、ある。的確に表現できない。その上、その意識したことを人に伝えることとなると、受けとる人の身の裡に堆積する諸々のコトゴト、体験とかそれに感じた感触、それをどう受け止めたかという意識やそれに対する価値評価がつきまとう。その都度、屈折し、偏光(偏向)し、送受信の食い違いも起きる。
 だから、当事者(ひと)は嘘をつくというよりも、人が表現することには、さまざまな衣装が付き纏い、本人ですらその表現が的を射てるかどうかに、一寸した違和感を感じることは、よくあることだと思う。「ほんとう」のことを言い当てているかという疑念は、常に付き纏う。
 ことにこの著者が体験したという「性暴力」を読んだとき、何か肝腎なことを見落としているのではないかと、わが身の裡に閃くものを感じた。それを話すのに、この著者の語る「性暴力」体験を、少し長いが紹介しよう。
    *
《私は……性暴力の被害に遭った。十九歳になってすぐのこと……五つ年上の男性から……。/私の頭には、今も、そのとき起きたことの記憶が焼きついている。乾いた粘膜が擦り切れる痛み、ベッドのフレームに私の頭が何度も打ち付けられ、ガシャン、ガシャンという音を立てていたこと。「痛いよう、痛いよう」という(おそらく)私の声。押さえつけられて動かせない身体。「この時間が早く終わってほしい」と天井の模様を見つめて、今起きているコトから意識を逸らそうとする、自分の努力。……/だが、当時の私は、これは「同意の上の性行為」であると認識していたし、性暴力とは思っていなかった。/行為のあとに、うずくまって痛みに耐えて「動けない」と訴えると、彼が「俺にはわかんねぇから」と冷たく言った。そのとき私は「彼は優しくない」と思ったが、暴力であるとは考えなかった。》
    *
  最初の性体験がこうであったというのは、彼女の不幸であった、とまず感じ、二つのことを思った。
 一つはワタシの初体験のこと。
 いずれ性体験をすることになると思っていた頃、『処女喪失』という新書が流行っていて、手に取った。私は男ばかり五人兄弟に育ち、女性の身体にも生理にもまったく知らない不思議を感じていたから、そんな本を読んだのではないかと思う。処女喪失に伴う「痛み」が、野坂昭如の小説などを読んで知っていることとだいぶ違うということも、それとなく感じて畏れおおい感触をもっていたこともある。はじめて抱き合ったとき、挿入には至らなかった。彼女の「痛み」が伝わってきて、途中でやめてしまった。いま思うと、それを彼女がどう克服したかはわからない。二度目に抱き合ったときシーツを汚し、性行為に至った。
 二つは、歳をとってからのこと。「乾いた粘膜が擦り切れる痛み」というのを、わが身のこととして体感した。体液が分泌されなくなっていたのであった。それ以降、性行為は行っていない。
 この二つのワタシの体験をもとにして小松原織香の記述を読み、「彼女の不幸」とみたのであった。と同時に、性行為というのは(それ自体が)暴力的である。いやそもそも、人と人とのコミュニケーション自体が、その(遣り取りの)関係には「暴力的な要素」を孕んでいる。ここで「暴力的」と呼ぶのは、相互の理解ができあがらないままに、「かんけい」が取り結ばれてしまうことを指している。
 相互のコミュニケーションに於いて齟齬とかすれ違いが起こるのは、謂わば当然である。身に堆積している体験が違う。関係によって生じるコトから感じる感触もズレたり違うものだったりする。それを表現する言葉も違う。概念や文脈、それの指し示す意味となると、もっと大きな差異が生じる。しかもそれがいつもフラットな関係で取り交わされているわけではない。惚れるとか好きになるということさえも、対称的ではない。その差異が生み出す力関係が、取り交わすコミュニケーションの送受に反映して、暴力的に侵入したり、押しつけられたりしている。
 まして性行為となると、言葉よりも身体の感官を通じて取り交わされる交通である。それこそ生命体35億年の積み重ねが堆積して、行為の発端が「わがままな遺伝子」の振る舞いとして内発し、関係が築かれ、設えられた場で行為が取り交わされる。ユングのいうアニマやアニムスの次元に起点を置いても構わない。つまり人の無意識に蓄積されている何かが、内発的な動機をつくり、人の振る舞いの起点をなしている。
 しかも人は、規範や伝統や法など観念の意匠を何重にも着せて、社会を保ってきた。その法ばかりか伝統や規範も、(馴染めないものには)暴力的である。それは逆にみると、人の本能が壊れているからであり、本能を壊して法や社会的仕組みや倫理規範で生き方を制御してきたのであった。別様に謂えば、暴力性を和らげ、関係の密なるが混沌へ進まないように、穏やかに自己統治してきたのであった。
 そう考えてくると、小松原織香の「性暴力」にワタシが感じた「葛藤の起点に感じたこだわり」は、次のように要約できようか。
(1)初めての性体験に同意し(てベッドをともにするに至っ)た彼女自身の心的な動きに踏み込まないのは、なぜなのか。
(2)「痛いよう痛いよう」という声を聴きながら、行為をやめようとしなかった五歳上の男性を「優しくない」というだけにとどめていたのは、なぜなのか。
(3)上記(1)は、じつは彼女自身の「無意識」に踏み込まないことによって、保たれている彼女のワタシなのではないか。そこを突き抜けるには、(そのときの)「無意識」が導いたワタシを、それとして受け入れる、つまり「赦す」ほかない。「性暴力」の相手を「赦す」かどうかよりも、ワタシを、まず「赦す」。もちろん体験がいくどでもフラッシュバックするのは避けようがないかもしれない。だが少なくとも、ワタシの根源を言葉にして意識することで、フラッシュバックの衝撃は和らぐのではないか。
(4)性行為というのは、動態的関係の極みのようなデキゴトである。本能が壊れたヒトのそれは、ジャレッド・ダイヤモンドの記述を待つまでもなく、相互的な実存承認の振る舞いである。だがそれが「暴力」となるのは、一方通行的に行為がなされるから。つまり、相互的なコミュニケーションであるはずの性行為が、(いくぶんかでも)対称的な遣り取りになっていないから。上記(2)は、デキゴト自体がそもそもはじめから相互的コミュニケーションという様相をもっていなかったのではないか。そう思われる。

「修復的司法」というのは、それ自体が法的言語の世界の話である。だから、その裏付けとしての哲学的探求は、どこかでぶち切られ、中空に取り残される。哲学的探求を徹底するなら、「修復的司法」は臨床哲学として、どこかで次元を別とする境界線を設けなければならないのかもしれない。
 市井の老爺にとっては、普遍的な「赦し」とか一般的な「和解」があるとは思えない。逆にいうと、「赦し」とか「和解」は一般的・普遍的にしか考えられないとも言える。いつでも個別具体的な事象しか、ない。でもそれを、一般化し、普遍的に考えることはできる。それだけのことだけれども、そうすることでヒトは、我が想念の安寧を得られるってわけですね。

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