mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ノザーン・テリトリーの旅(9) アボリジニの文化伝承の方法

2015-10-02 11:34:21 | 日記

 ウルル(通称エアーズ・ロック)のアボリジニによる創世物語は面白かった。ベンソンさんというアボリジニの血を何分の一が受け継いでいる(と思われる肌の色の)方が現地ガイドになって、ウルルの岩山を経めぐりながら、アボリジニの物語りを聞かせてくれた。

 

 ウルルの岩山は、乾燥したサバンナのような砂漠地帯にぬっくと立ちあがっている。標高差300mほどの、東西3km、南北2㎞、Base-Walkと名づけられた周回歩道が10㎞余の赤い岩山。下半の傾斜が急にそそり立ち、地面と決別して起ちあがっているような気配を湛える。遠望すると、滑らかな表面にみえるが、近づいてみるとざらざらした岩肌が陽ざしに焼かれてこげ茶色になっている。じつは近づいたときに、ちょっと歩道を外れてウルルの岩肌に触ってみた。見かけと違って、しんなりと肌に吸い付くようなやわらかさを感じた。

 

 しかも、下半の断崖斜面には、上部から流れ下る水がつくったと思しき浸食が、縦の幅の広い黒っぽい筋をつくり、長年かけて削られて大きな断崖をなす。それに加えていくつもの窪みがある。なめらかな斜面が丸く削られ目のようにみえたり、崩落したのかと思われるほど大きく窪んでいる。アランさんの説明では、風で小さな石がぐるぐると窪みを回るうちに、何百年もかけて空いた窪みだという。水辺にできる甌穴(おうけつ)のようにみえるが、風でできるのなら風穴というのだろうかと誰かが聞く。ふつう風穴は石灰岩の山の一部が水で溶かされてできた穴を指すから、風に吹かれた小石がそれより大きな穴の中を回るうちにできると考えると、ありえない話ではないが、(たぶん)風よりも上部からの(雨季の)水の流れが斜面にあった窪みの小石を回して大きく穴をあけるまでに育てたのではなかろうか。雨季にはそこから滝のように水が流れ落ちるとも聞いた。

 

 登山口にはこれからウルルに登ろうとする服装の人たちが何人も集まっていたが、登っている姿は見かけなかった。気温は35度を超えており、岩山の表面温度は40度を超えるとガイドのアランさんが話す。午前中に行ったカタジュタでも35度を超えるときには通行禁止になる遊歩道があった。そこの通行は午前中には禁じられていなかったが、午後のウルルは駄目だったのかもしれない。

 

 比較的大きな庇になっている岩の窪地に立ち寄り、ベンソンさんは「ここがエレメンタリー・スクールのクラス。グラン・ファザーがグラン・サンにグラン・マザーがグラン・ドーターに教える」と説明し、また別の少し大きな窪地に行って「ここがハイ・スクールのクラス。グランファーザーはグランサンに星や天体、地形や気候や水、動物のことや狩りの技術、満ち溢れる危険を教える。グランマザーはグランドーターに生理と出産のこと、薬草のこと、病気治療のことや調理を教え」、スピリッツを受け継いでいくのだ、と力を入れる。

 

 そうして一番大きな、数十人が入れそうな岩の窪みに入ったとき、「ここが私のクラスだ」と言ってから、アボリジニの世界がどう作られてきたかを延々と話し始めた。彼の熱弁が私に伝わったのはじつは事前に読んだ、谷村志穂『時のない島――オーストラリア、ノーザン・テリトリーの旅』がアボリジニ「フォークロア」の伝承の仕方に触れていたからだ。彼らはそれぞれが自らの「(出自―来歴の)由来」をもち、それを自らの孫に、口承によって受け継いでいく。その物語は星とつながり、さかのぼればウルルと結びつている、と。

 

 アボリジニが祖先から血を受け継いで群れをつくり、その群れのネットワークが大きなアボリジニの氏族となったと、砂に絵図をかいて熱弁をふるう。その絵図はいつしかオーストラリアの全体の概念図となっている。そうして、その発端は北から七つの星が降りてきてそれが七人の娘となって土と交わってはじまったと加えて、その七つの星娘が散ってパースだアデレードだダーウィンだメルボルンだという町々になっている、その中心にウルルが位置していると言っているのだろうか。つまり彼は、アボリジニの「創世記」を語り、現在につなげようとしているのだ。そう言えば彼は「アワー・ニュー・テスタメント」と言っていた。キリスト教のそれを否定はしないが、自分たち流の「創世記」を創作して対応しようとしていると思えた。手に入れた獲物をそこにいる人たちがみな平等に分け合っていたから、人から分け与えられても「ありがたい」という(感謝の)ことばも持たなかった(同時に何か他人に施しをしたという観念もなかった)とも話していた。面白い「かんけい」感覚だと思った。

 

 オーストラリア大陸がヨーロッパ人によって占有され、アボリジニは人とはみなされず虐殺され、あるいは、未開から救うとして子どもを親から奪って施設に入れてヨーロッパ人が育てるという暴力的な支配をつづけて200年。やっと今になってアボリジニの「先住権」が認められつつあるとはいえ、その所有が認められて住まうところは不毛の地とみなされるところだけ。相変わらず、狩猟採集の暮らしをしているのか、あるいは、ヨーロッパ人の持ち込んだ資本制社会のシステムの裾に組み込まれて、貨幣を得るために苦労しているのか。どう暮らしているかわからないが、自分たちのスピリットの正統性を物語として紡いでおかなくてはという、焦るような思いがベンソンさんから伝わってくる。

 

 薬草に関する彼の説明は、細かいところはほとんどわからなかったが、身近にある草木が痛み止めや下痢や出産のときの止血や産後の回復に役立つと、流通経済に依存しないでも私たちは生きていく知恵を伝承してきていると、誇らしげであった。すでにウルルを20kmほど離れた夕陽の沈むリゾートの高台にいて、やはり地面の砂に絵をかき、取って来た道端の草花を並べ、臭いをかがせ、木の実を食べさせて話しつづける。(私たち以外の)リゾートに来てそこで夕陽を見ている観光客が関心を示す。子どもを見つけると、食べた木の実の種をつかって、ビー玉遊びのような遊びをやって見せ、たちまち周りの大人もやって見せて、子どもたちに手渡す。なるほどこうして文化が伝えられていくんだと示しているようであった。

 

 バスの中で、通訳役のIさんを通じて「アボリジニの物語りでは、父母はどういう役割を担っているのか」問うてもらった。ベンソンさんは「そう、父母は(登場して)いない」と笑って応えただけだ。この問いは気になったらしく、その後も私たちの間で話題になった。私なりに落ち着いた一つの解釈。父母は(子どもの)体をつくる(産み育てる)。魂は祖父母が受け継ぐ、というのではないか(ただ彼らは、体と魂を分節して考えていないから、「体をつくる」とは言えなかったのではないか)。父母は日々の暮らしの糧を手に入れるので(たぶん)精一杯。糧を手に入れることから解放された祖父母が「魂」を伝承していくという役割分担。そのことは同時に、人生の意味を伝えてもいる。子を産み育て、魂を受け継いでいく、その営みと知恵の継承の方法をも確立していたと言ってよいであろう。

 

 「命を大切にする」とか「魂を受け継ぐ」などということは、日常の暮らしをどうやって自ら(たち)の手でやり遂げていくかに、すべて込められている(はずだ)。それこそが手ごたえのある「文化」であり、伝承の仕方ではないか。今の私たちの巨大化した社会の中で、学校というシステムや会社という仕組みを使って伝承していることがすっかり忘れてしまった「伝承の方法」を、アボリジニは堅固に守っているのであろうか。我が身とともに、彼らのありようの現在が気にかかった旅であった。(終わり)


コメントを投稿