mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「死の単独性」(承前)

2024-05-07 08:05:19 | 日記
 昨日の記述でも、やはり「死の単独性」が最後に取り残されましたね。あざなえる縄の如き歴史を生きる「加害-被害」関係の「輪廻」から抜け出すには、人生を「一切皆苦」「生苦」と受け止めて(沈黙を)生きるというと、四苦八苦の「煩悩」を悟り、「諦念」を介在させて「解脱」を志す、というように受け止めていました。
 何かの本で読み知ったのですが、輪廻転生(という天然自然の節理)を「解脱」するには「神道」、輪廻転生を繰り返すのは「祖道」と呼んだと、仏教の祖型であったバラモン教の経典「ウパニシャッド」の解説がありました。ははあ、神仏習合というのを、てっきりヤマトの土俗信仰に取り入った(あるいは、組み込んで換骨奪胎した)仏教の末裔くらいに思ってきたけれども、そうじゃないんだ。仏教の原型にすでに「神道」(しんとうとは読まず、しんどうと読んでいたように思う)があった。ということは、古事記を創作したころから「光の道:神道」と「闇の道:祖道」という認識をもっていたのかと、何かがわが心裡で氷解したような思いをもったことがありました。何が氷解したのかは、まだ突き詰めていませんが。
 なんでそれをいま思い返したのか。「諦念」を悟りとするのは、何だか後ろ向きだと感じていたのですね。後ろ向きで何がワルイか。今ここの意味を探ってみると、そこからヒトは如何に生きるかという「倫理」が出て来るように思えなかったのです。「諦念」は個人の悟りです。「倫理」というのは、ヒトとヒトとの関係です。
 ところが、「加害者性を手放さずに(加害者から脱落して)」石原吉郎のように「沈黙に生きる」というのは、たった一人の個人というよりは「単独者として生き/死ぬ」在り様として、「関係」に思いを致すこと。そう考えると、「死の単独性」という倫理的在り様に行き着くと思いました。
 上記のことが、では、ワタシにどう関係してくるのか。
 輪廻転生を繰り返すというのは、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃を因果応報として繰り返す(人動説的)世界を意味します。もちろんワタシにとってそこからの離脱は、自由な社会を保つことと同義という観念的なイメージに過ぎません。ヒトの宿痾のように身の裡で蠢く百八煩悩の、何度も身に沁みて懲りているはずの利得やプライドや不安の解消を、他のヒトを攻撃排除することで成し遂げようという憎しみの渦巻きを断ち切らないかぎり、人動説的世界からの解脱は見通せません。
 その端緒となる「倫理」を、ワタシのことばで具体的につかみ取る。これが、せめて私が今、「加害者性を手放さずに(加害者から脱落して)」歩くことのできる一条の灯りに思えるのです。
 死の単独性とは、我が身の倫理的在り様を求めて生きるワタシの遠近法的消失点です。そう感じただけで、おもしろい哲学者の対談に出遭ったとうれしく思っているのです。

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