mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

言葉は世に連れ世は風まかせ

2024-01-24 10:57:23 | 日記
 世間という言葉を、私は長い間、思い違いをしてきたのかと思った。広くいうと世の中、狭く取ると自分の生きている共同体ほどの意味合いを持つ空間と考えてきたのだが、畑中章宏『宮本常一 歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書、2023年)の第一章「『忘れられた日本人』の思想」を読んでいると、共同体の外の世界という意味合いで用いられていて、おやっ? と立ち止まった。
こう紹介している。

《宮本常一の民俗学で特徴的な言葉に「世間」がある。世間は一般的に、「世間様」「世間の風」というように共同体の外側にある社会、あるいは人々の行動を制約する無形の規範のこととして理解される》

 まずここでズレが生じている。規範を以てその構成員を規制するのが「共同体」と私はとらえている。共同体とその周縁のセカイは入れ籠状に重なっている。周縁というのは、それこそ宮本常一が紹介する世間師が持ち込んでくる新奇なことを受け容れる余白のようなセカイである。
 規範というのを私は、個人のメンタリティの生成過程からみると、いつしか身の裡に形づくられていて、自我が生まれると「外からの規制」のように感じられて反発するようなことととらえていた。つまり(そこに身を置く人にとって)規範というのは、身の裡の無意識である。ここには、それを抑圧と意識して始めて人は自律への自由を歩み始めるという動態的逆説がある。小中高と歩む学校での児童・生徒の成長がそれを如実に表している。
 だが畑中は「共同体の外側にある社会」と、共同体を取り囲むもっと大きな(外側の)世界を指している。規範のとらえ方の違いがあると感じた。
 規範というのを私は、ワタシと気配を同じうする(例えば地域や街や列島住民という共同幻想をもっている)共同体の、あらまほしき在り様を示す「倫理」のような生き方・振る舞い方のモデルと考えている。したがって帰属集団によって規範は異なり、ある人にとっては当たり前のことが他の人にとっては非道なことになったりする。対するに「道徳」は、数多ある異質の世界をも通貫する人類史的普遍を表す在り様と私は理解している。帰属する集団によって左右される規範ではない。共同幻想の広まりによって倫理は大きく揺れ動くが、道徳は厳然と佇立していると言えようか。
 畑中は「規範」を道徳のようにとらえているのか。でも、どうしてそう、とらえるのか。それは、共同性とか世界とかいうことについてのとらえ方の差異が横たわっているのだろうか。そこに田中と私の違いがある。
 私たちは家族という小さな世界に生まれる。それがご近所や縁戚や幼友達やその人たちの目にしている世界すべてに共同性を感じることはできない。社会規範というのは、共同体成員の中で醸し出されて、いつしかかたちを成してくる共有の行動倫理であるた。だから、共同体の内側から生まれてくるものであって、外から降り注いでくるものではない。畑中のように外側にある社会から制約的に降りてくるとなるのは、自我が共同体から自律しようという意識の誕生によって発生するもの。つまり身の裡が自律へ共同体から分離し始めた証しであって、外から抑圧してくるものではない。
 畑中は1962年生まれ、今年61歳か62歳か。私とちょうど20年離れている。物心つく頃からすでにTV画面を通じて、知らない世界ではあるが広大な人類史が、身を置く共同体を取り巻いていると感じていたのかもしれない。
 戦中生まれ戦後育ちのワタシは、敗戦と戦後の日本国憲法の理念とに挟撃されて、ニホンとセカイを同時に受け止めながら自我の形成を行ってきた。子どもの頃に抱いていた図柄を簡略に描けば、ニホンは遅れており、欧米は人類史の先を歩いているというものであった。少し長じて、そう一直線の進歩と遅滞と言えるものではないと思うようになった。わが身の裡に累々と堆積しているニホンの土壌に育った人類史は、ワタシの無意識として現存在に現れており、逆に欧米もまた、WWⅡに辟易して日本国憲法の理念を日本国に押しつけはしたものの、彼らにとってもその条文に記された理念は、なんとしても手に入れたいカントの謂う純粋理性の発露であった。
 後にその両者のいずれかをYES/NOの二者択一にして、後者を自虐史観と誹る人たちが現れたが、その人たちは両者の違いに挟撃されなかったのかと、その精神形成に疑念を抱いたほどであった。二者択一と思えなかったワタシは、自らの立ち位置を生活者庶民に据えて、我が身に堆積する人類史的径庭を改めて編み直すことへと歩を進めてきた。
 畑中が奈辺に身を置いてきたかは知らないが、宮本常一に目を付け、さらに「歴史は庶民がつくる」と視点を集約するのに好感を抱きつつ、本書を繙いている。彼は、我が身が育まれている日本列島をみたとき、人のメンタリティがすでに、国際関係の規範の荒波に揉まれて、抑圧的な外圧にさらされていると感じたのだろうか。(つづく)

コメントを投稿