人間いつかは死ぬ。それがいつかは解らない。それで、安心して生きている。というより、考えないようにして生きている、という方があたっているのかもしれない。それで、その時期が近くても、その姿勢を変えることがなかったりする。
私も急性の心筋梗塞になったとき、死んでも不思議ではなかった状況にもかかわらず、生死のことは、まったくアタマにはなく、ただ唸っていただけであった。鈍感で幸いしたのかもしれない。否、貴重な体験をしそこなったのかもしれないが。ともかく、恐怖感というのは、まったくなかった。
本番のそのときには、どうなることかは、もちろんわからないが、ジタバタするもよし、そうでないのもよし、それは、重要な問題ではない。入院後、同病の方に、心筋梗塞で猛烈に暴れた人をみた話を聞いたことが、あったが、おそらく死の恐怖に我を忘れたのかもしれない。
考えてみると、いわゆる、本当の悲しみを体験してはいないのかもしれない。中途で職を離れたこともあったし、人に不当な扱いをうけたこともあった。収入をうるのに、慢性的な不安感にさいなまされたこともあったが、時代が緩やかだったせいで、それほど、苦しみはなかったように思う。
多くの悲しみをかかえた人々が、いるなかで、自分にできることは、なんなのか。考え行動する時期を、迎えているようにも思う。
どう生きるのか、遅まきながら、真剣に考え無理をせず、しっかりと生きていきたいものだが、楽をしていきたい、とのホンネのサボりの声が、自分を支配し、それに抵抗するソブリをしている自分が、みえる。そういう究極の場面にでくあわさないように願っているチンケな姿がみえる。
しかし、チンケはチンケなりに、なんとかしようと、一方ではこころがけることを、忘れたくはない、とも思っている。
私も急性の心筋梗塞になったとき、死んでも不思議ではなかった状況にもかかわらず、生死のことは、まったくアタマにはなく、ただ唸っていただけであった。鈍感で幸いしたのかもしれない。否、貴重な体験をしそこなったのかもしれないが。ともかく、恐怖感というのは、まったくなかった。
本番のそのときには、どうなることかは、もちろんわからないが、ジタバタするもよし、そうでないのもよし、それは、重要な問題ではない。入院後、同病の方に、心筋梗塞で猛烈に暴れた人をみた話を聞いたことが、あったが、おそらく死の恐怖に我を忘れたのかもしれない。
考えてみると、いわゆる、本当の悲しみを体験してはいないのかもしれない。中途で職を離れたこともあったし、人に不当な扱いをうけたこともあった。収入をうるのに、慢性的な不安感にさいなまされたこともあったが、時代が緩やかだったせいで、それほど、苦しみはなかったように思う。
多くの悲しみをかかえた人々が、いるなかで、自分にできることは、なんなのか。考え行動する時期を、迎えているようにも思う。
どう生きるのか、遅まきながら、真剣に考え無理をせず、しっかりと生きていきたいものだが、楽をしていきたい、とのホンネのサボりの声が、自分を支配し、それに抵抗するソブリをしている自分が、みえる。そういう究極の場面にでくあわさないように願っているチンケな姿がみえる。
しかし、チンケはチンケなりに、なんとかしようと、一方ではこころがけることを、忘れたくはない、とも思っている。
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