世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

この世にたった一人だけででいい

2012年07月21日 | 人間関係
何人もいらない。

多くの人に分かってもらう必要もない。


たった一人だけ、

自分のことを分かってくれる人がいればイイ。


それだけで人は救われるのだから。



一人だけそばにいてくれるだけでいい。


一緒に寄り添ってくれればい。

出来れば一緒に泣いてくれればなおいい。


一緒に遊んでくれればもっといい。



何人もいらない。


たった一人だけ、

それだけで十分。


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学校の「いじめ」というと

実質「集団暴行」のことを指す。


その中にたった一人味方になってくれる人がいたら救われるのです。



「君の見方だよ」って言ってくれるだけでもいいのです。



本来、親が真っ先に気付くべきです。

親なら分かるはずです。


微妙な変化を悟らなければならないのです。



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学校にはそもそも隠ぺい体質があります。

狭い閉鎖社会です。


基本的に先生たちは自分の既得権益を守り抜こうとします。

先生の多くが公務員であり、それぞれが同じ立場なので


不条理を隠し合うのです。



何か問題が起きても責任を取ろうとしません。

(現在ボクも学校とのある問題に係わっていますが
無視され続け、校長も教頭も教職員全員が取り扱おうとしません)


熱血漢の先生がると助かるのですが

職員室でも浮いてしまうので嫌います。


金八先生のような先生はほとんどいません。

ぼっちゃんもいません。


赤シャツだらけです。

(意味が分からない人は、夏目漱石の「ぼっちゃん」を読んでください)



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実社会でも同じことです。

どんな世界にも「いじめ」はあります。


それを感じたらソットより添ってあげればいいのです。



寂しい人がいたら声をかけてあげればいいのです。



「どうしたの?」

「お疲れさん」

「一緒に帰ろうか」


何でもいいのです。


そして、話を聞いてあげればなおいいのです。



人はそれだけでずいぶん救われるのです。



寄り添ってもらいたかったら

誰かに寄り添ってあげる人になればいいのです。



たった一人小さな勇気を振り絞って寄り添ってあげてください。



あなたの周りにもそれを求めている人が必ずいるはずです。


見て見ぬふり、事なかれ主義は


平和主義とは全く違います。


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ボクは、昨今巷で言われるボランティアという言葉があまり好きではありません。



なんとなく

偽善的で押し付け的で、

義務感が漂うからです。



災害が起きると、昨今必ずボランティアの呼びかけが始まります。


悪いことではありませんが

なんとなく行かなきゃという罪悪感まで伴う時があります。



ボランティアに行ってきました。

自慢げに話す人が増えました。


黙って行けばいいのです。

ありがた迷惑な時もあります。




ネットで呼びかけて、テントまでたてて、

受付作って名札配って、

炊き出しまでやって、



笑いながら、ふざけながらやってる人も見かけます。

なんか違うなって思う時もあります。




最近のデモだって同じ風景が見られます。

休みだから、やることないから、


その辺のフリマでも覗くように、

歩行者天国にでも繰り出すように、


なんか違うだろ、って気になります。




そんなに人助けしたいんならシリアへ行けよ、

って言いたくなります。


命かけて戦ってみろよ、って。

(中にはいるみたいだけど、

無謀だからやめてくださいネ)



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「何かお手伝いしましょうか」、

ってそっと声をかけるだけでもいいのです。



誰も手の届かないところで困っている人は沢山います。


旅をしているとそういうことに気付くことがあります。



そんな時にこそ、予定を変えてでもお手伝いをするのです。


日ごろ道を歩いていてもそういう場面に遭遇します。

横断歩道で、急かされて転びそうなお年寄りがいます。


普段、なにげないところに人助けは潜んでいます。




逆に、注意するのも大切です。

見るからに未成年が路上でたばこを吸っている。


それでも、見て見ぬする人がほとんどです。


注意して、5~6人の仲間に取り囲まれたこともあります。

毅然たる態度が必要です。


目を見て、真っ向から向き合うのです。

逃げてはいけません。


目を逸らしてはいけません。




その中にも勇気ある仲間がいます。

分かってくれる人間が必ずいます。


自分からそって煙草を消してくれました。



「ありがとう」 って声をかけました。

彼はにっこり笑ってくれました。



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「声掛け」が大切なのです。

今は、メールで済ましてしまえば一日話をしないことだって可能です。


「声欠け」 の世の中になってしまっています。


声なき社会、物言わぬ世界が広がっています。



ボランティアの中にも指示待ち族が多くいます。


黙って突っ立っています。


自分から進んでやれないし聞いてやることもしない。



動かないし、

動けば余計なことまでして2度手間になってしまう。


必用なものまで捨てちゃったりする。

草刈りを頼めば、花や木まで切ってしまう。

これなら自分でやった方がましだとさえ思ってしまう。





見ず知らずの人より

隣近所で支え合うのがもっといいのです。


疎遠だった遠い親戚が来てくれればもっと嬉しいのです。




ボランティアとは自発的(spontaneous)という意味合いです。

本来、人から勧められてやることではないのです。



自主的に黙って、こっそり行うべきものです。



いじめ、ボランティア

新聞紙面を賑わす言葉が独り歩きしているようです。



まったく対比的な言葉なのに、

なんだか同じ要素が含まれているような気がしてなりません。



それは集団性が感じられるからかもしれません。




集団に振り回されず自分の考えで行動してほしい。


そういう教育をすべきなのだと思います。



一人でも立ち上がる勇気




【追記】

ボランティアを否定するものではありません。


ボク自身も、

いわゆるボランティア活動と呼ばれるものには係わっていますから。



そのなかで

なんか勘違いしてるなって人が見受けられのも事実です。




何事も

自分で考え、

自分で判断し、


自発的(spontaneous)に行動する
 ものではないでしょうか。